つながらない電話をあきらめられず、受話器を離そうとしない少年。取り上げられると、外へ飛び出して職員につかまえられた。施設で暮らすシリル(トマ・ドレ)は、何の連絡もよこさない父(ジェレミー・レニエ)の迎えを待っている。通学途中で抜け出した彼は、元のアパートを訪ねるが、父は引越してもぬけの殻。大切にしていた自転車も消えていた。
シリルはとにかくすばしこく、そして頑固。元のアパートを訪ねたときも、管理人がだめなら医者に怪我だと言って建物内に入り、職員に見つかって連れ戻されそうになると、そばの女性にしがみついた。絶対にあきらめないのは、父に会いたい願いがとても深いから。
しがみついた女性サマンサ(セシル・ドゥ・フランス)は、シリルの自転車を持ち主から買い戻してくれる。父は金に困って売ったのだが、シリルは信じず、盗まれたのだと言い張った。そして、サマンサの車の周りを回って自転車の技を見せ、彼女の後を追いかけて、週末の里親になってくれと頼んだ。自分に関心をもってくれる大人を見分け、一瞬のチャンスに手をのばしたのだ。
サマンサの美容室で一時を過ごすことになっても、シリルは自転車に乗って父を探し続ける。いつもいつも走りまわる姿と、彼を追う不安定なカメラは、少年の不安や強い求めそのままなのだろう。父がよく通ったカフェ、一緒に行ったパン屋。父は自分を愛していたはず。
シリルは、自転車に乗っていないときは、走り回る反動のようにじっと身をすくめている。流しっぱなしの水を触っているのは、サマンサの気を引きたいというより、水の柔らかさに触れたまま閉じこもっているよう。うっとりとではなく、傷ついて頑固なまま。夜に起きてサマンサが近づくと、「息が温かい」といってじっとしている。彼は愛されたい。かまわれたい。そして、サマンサは、ごく自然にシリルに接し、彼を支えていくのだ。
やっと探し出した父。シリルは厨房を父のあとにくっついて歩き、もう帰れと言われると、とっさに鍋をかき回して時間をかせぐ。あれほど頑固な彼が、父のことをちっとも責めない。父は、ジュースを飲ませ、おやつをあげて、携帯の番号も控えてくれた。だが、シリルとあいまいな約束をしたあと、父はサマンサに、もう息子に会う気はないと伝えたのだ。
父は、冷酷なわけではなく、ただ事情に流されている弱い大人なのだろう。自分で伝えないのはバツが悪いから。だが、はっきり捨てられたと知ったシリルは、深く傷つく。車のなかで、じっと固まっている少年。突然自分をかきむしって頭を打ちつけ、そして初めてサマンサのそばで泣いた。
シリルが密売人の青年と出会ったのは、自転車を盗んだ少年とケンカをしたから。家に入れ、ゲームをさせてくれ、コーラをくれた。シリルが彼を警戒しないのは、自分と同じ施設で育ったといったからかもしれない。青年はシリルに細かい動作を指示し、それは一見サマンサのしつけと似ている。だが、サマンサが暮らしのルールを教えているのと違い、青年のはシリルを手なずけて手下にするため。それでも、少年には同じ親身さに感じられたかもしれない。シリルがサマンサより青年との約束を守ろうとするのは、彼への親近感と、男同士の結束からだろう。
もし青年が組織の人間だったら、シリルは彼との関係から抜けられなかっただろうと思う。親身な顔をして近づいてくる悪の集団に、孤独な子どもがどれほど絡め取られていることだろう。青年が一人で、しかも小心で、保身のためにシリルを捨てたことが、シリルを救うことになったのだ。
シリルは強盗したお金を父に渡そうとするが、つれなく追い出される。寄る辺のない彼が、夜の闇のなかを、ハイスピードで走っていく。カメラが捉えるのは、必死に漕ぐ少年の姿だけ。息が詰まるような孤独。だが、シリルにはサマンサがいてくれた。
二人が家族になり、二人でサイクリングをする場面は、広々と景色が映り、楽しそうな二人を、カメラがいろんな方向から映し、シリルの心が落ち着いているのを反映するかのように、自転車はゆっくりと走っている。
フランス映画はシビアだから、ラスト近く、被害者の息子に石を投げられたシリルは、死んでしまったのかとぎょっごした。起き上がり、サマンサのもとへ帰る、ゆっくりとした自転車の動きで画面が切れた。その切れ方が、ごく普通の日常のようで、彼の幸せを伝えていると感じた。
2012年05月15日
2012年05月14日
僕たちは世界を変えることができない
一昨日、みんぱくワールドシネマで「僕たちは世界を変えることができない。But, we wanna build a school in Cambodia」を観た。
医大生の田中甲太(向井理)は、郵便局で偶然目にしたカンボジア支援のポスターに触発され、カンボジアに小学校を建てる決意をして友人たちと目標に向かっていく。
甲太には社会的な意識があったわけではなく、なぜそんなことをするのか、自分でも理由を自覚していない。厳しい受験を勝ち抜いたのものの、満ち足りているはずの日常に空虚感を抱き、何かもっと夢中になれるものを探していただけだ。そんな甲太の熱に、友人の矢部と柴山は困惑しながらも巻き込まれていく。
クラブで騒ぐ女の子たち。彼女たちを尻目に固まっている甲太たちに近づいてきた本田。イベントを取り仕切って、派手に楽しんでいる風の彼も、実は違う刺激を求めていて、甲太の呼びかけに、意外なほどあっさりと乗ってきた。
彼らはカンボジアに小学校を建てるためのサークルを作るが、メンバー作りは、クラブで女の子に声をかけるというもの。見た目はまさにナンパ。だが、ここでも意外なほどちゃんとメンバーが集まっていく。深く考えたら上がらない腰も、軽いノリだから行動できるのかもしれない。
だが、カンボジアについて実は何も知らなかった甲太たちは、現地を訪れて衝撃を受ける。
1975年から79年までのポルポト政権期、カンボジアでは国民の4人に1人、200万人もの人が飢餓や処刑で亡くなった。甲太たち4人は、特に攻撃対象とされた医者や教員など知識人がつながれた収容所で、遺体の写真や大人の男の足首が入るとは思えない足かせを見る。飢えと強制労働と拷問。収容者1万7千人のうち、生き残ったのはたった7人だけだったという。
赤ん坊の足をもって、打ち付けて殺したという、キリングツリー。雨で砂が運ばれたせいで、埋められた人骨や歯や服が地表に見えている、キリングフィールド。
そして、危険な地雷野に住む貧しい子どもたち。
日本に戻った甲太は、あまりの落差に戸惑うが、支援を約束してくれたIT企業の社長が不正取引で逮捕されたうえ、彼らもネット上で攻撃され、メンバーの中にも亀裂が入っていく。焦って会員にノルマを命じる本田。支援の理由を改めて聞かれ、何も答えられない甲太。軽いノリで集まった女の子たちは、同じく軽く離れていく。
うまく自分の行動の意味を説明できない甲太の反応はリアルで正直。だが、それでも彼らが目標から離れなかったのは、カンボジアでの人々との出会いが大きかったためだ。
ガイドのブティーは、食事のたびに、何も食べられなかった父のことを思い出す、といって、収容所に入れられた父の最期を、泣きながら話してくれた。エイズ患者の若い女性は、矢部が人気歌手に似ているといい、楽しそうに笑っていた。彼女にまた会いにくるといった約束を守らなければ。父親の手伝いのために学校に行けないスウィッツ少年。学校を建てるといった約束を果たさなければ。
そして、決してあきらめなかった甲太たちの努力で、本当に小学校が建ったのだ。
開校式で矢部が歌ったブルーハーツ。がなるように泣きながら歌って、子どもたちに気持ちが伝わっただろうか。甲太が挨拶した「生きる希望をありがとう」も、それ以上の説明がなければ、自己満足の暴露みたいで、何ともあからさまな遠慮のない言葉のような気がする。
甲太がサークルのみんなを前に、「何もない僕ですが」と言って突然パンツ一枚になる場面も、何とか説明したりの言葉の努力を捨てて、いきなりそんなことをするのは奇異な感じがしたが、苦しまぎれにも思える活動への思い、未熟なままでも前に進みたい希望を、うまく説明できない、でもどうしても分かって欲しい、というのは分かる。そして、甲太が言う結局世界を変えることなどできないという無力感は、彼らのものだけではないと思う。
場面が進むにつれて、若者たちとカンボジアの人たちの心の交流が進んでいく。それがとても感動的だった。遠い国の知らなかった状況に心を痛め、がむしゃらに進んでいく若者たち。そして、彼らにとって、この活動が結局彼らのその後の人生を大きく動かしたことにも心を打たれた。
医大生の田中甲太(向井理)は、郵便局で偶然目にしたカンボジア支援のポスターに触発され、カンボジアに小学校を建てる決意をして友人たちと目標に向かっていく。
甲太には社会的な意識があったわけではなく、なぜそんなことをするのか、自分でも理由を自覚していない。厳しい受験を勝ち抜いたのものの、満ち足りているはずの日常に空虚感を抱き、何かもっと夢中になれるものを探していただけだ。そんな甲太の熱に、友人の矢部と柴山は困惑しながらも巻き込まれていく。
クラブで騒ぐ女の子たち。彼女たちを尻目に固まっている甲太たちに近づいてきた本田。イベントを取り仕切って、派手に楽しんでいる風の彼も、実は違う刺激を求めていて、甲太の呼びかけに、意外なほどあっさりと乗ってきた。
彼らはカンボジアに小学校を建てるためのサークルを作るが、メンバー作りは、クラブで女の子に声をかけるというもの。見た目はまさにナンパ。だが、ここでも意外なほどちゃんとメンバーが集まっていく。深く考えたら上がらない腰も、軽いノリだから行動できるのかもしれない。
だが、カンボジアについて実は何も知らなかった甲太たちは、現地を訪れて衝撃を受ける。
1975年から79年までのポルポト政権期、カンボジアでは国民の4人に1人、200万人もの人が飢餓や処刑で亡くなった。甲太たち4人は、特に攻撃対象とされた医者や教員など知識人がつながれた収容所で、遺体の写真や大人の男の足首が入るとは思えない足かせを見る。飢えと強制労働と拷問。収容者1万7千人のうち、生き残ったのはたった7人だけだったという。
赤ん坊の足をもって、打ち付けて殺したという、キリングツリー。雨で砂が運ばれたせいで、埋められた人骨や歯や服が地表に見えている、キリングフィールド。
そして、危険な地雷野に住む貧しい子どもたち。
日本に戻った甲太は、あまりの落差に戸惑うが、支援を約束してくれたIT企業の社長が不正取引で逮捕されたうえ、彼らもネット上で攻撃され、メンバーの中にも亀裂が入っていく。焦って会員にノルマを命じる本田。支援の理由を改めて聞かれ、何も答えられない甲太。軽いノリで集まった女の子たちは、同じく軽く離れていく。
うまく自分の行動の意味を説明できない甲太の反応はリアルで正直。だが、それでも彼らが目標から離れなかったのは、カンボジアでの人々との出会いが大きかったためだ。
ガイドのブティーは、食事のたびに、何も食べられなかった父のことを思い出す、といって、収容所に入れられた父の最期を、泣きながら話してくれた。エイズ患者の若い女性は、矢部が人気歌手に似ているといい、楽しそうに笑っていた。彼女にまた会いにくるといった約束を守らなければ。父親の手伝いのために学校に行けないスウィッツ少年。学校を建てるといった約束を果たさなければ。
そして、決してあきらめなかった甲太たちの努力で、本当に小学校が建ったのだ。
開校式で矢部が歌ったブルーハーツ。がなるように泣きながら歌って、子どもたちに気持ちが伝わっただろうか。甲太が挨拶した「生きる希望をありがとう」も、それ以上の説明がなければ、自己満足の暴露みたいで、何ともあからさまな遠慮のない言葉のような気がする。
甲太がサークルのみんなを前に、「何もない僕ですが」と言って突然パンツ一枚になる場面も、何とか説明したりの言葉の努力を捨てて、いきなりそんなことをするのは奇異な感じがしたが、苦しまぎれにも思える活動への思い、未熟なままでも前に進みたい希望を、うまく説明できない、でもどうしても分かって欲しい、というのは分かる。そして、甲太が言う結局世界を変えることなどできないという無力感は、彼らのものだけではないと思う。
場面が進むにつれて、若者たちとカンボジアの人たちの心の交流が進んでいく。それがとても感動的だった。遠い国の知らなかった状況に心を痛め、がむしゃらに進んでいく若者たち。そして、彼らにとって、この活動が結局彼らのその後の人生を大きく動かしたことにも心を打たれた。
2012年05月06日
タイタンの逆襲
ゼウス神と人間の間に生まれたペルセウスは、ゼウスに地下の魔物が現れるから一緒に闘おうと誘われるが、息子がいるからと断った。その後、地上は魔物の餌食となり、ゼウスは、彼の兄ハデスと息子アレスに捕らえられ、同じくゼウスの兄弟であるポセイドンは殺されてしまった。
ハデスは、ゼウスに父クロノスの番人を命じられたことを恨んでいて、息子アレスは、ゼウスがペルセウスばかりを愛することを恨んでいたのだった。父の危機を知ったペルセウスは、ポセイドンの息子や人間の女王アンドロメダと共に、ゼウスを助け出すため、戦いの旅に出る。
ギリシヤ神話を知らないので、名前がややこしかったし、みんな顔が同じに見えて、始めは誰が誰だか分かりにくかったけど、とにかく映像がすごかった。日本語吹き替えの3Dで観たのだが、すごい臨場感。
口から火を噴く双頭の魔物。石斧を振り下ろす一つ目の大男。どれも凶暴で、ものすごいスピードとすさまじい破壊力。それに、アレスが執拗にゼウスとペルセウスに襲い掛かかってくる。地下の世界に行き着くまでに立ちふさがる石の壁が、上下左右に動いて、危機一髪の場面も迫力。どこまでがCGなのか分からないけど、風景もリアルだった。
クロノスが現れる場面は、きのこ状の火の玉で、原爆みたいと思ったが、その後クロノスが姿を見せると、まさに「ナウシカ」の巨神兵のCG版。とにかく今の技術って、すごいなあ。
嫉妬と怒りのエネルギーのすさまじさ。ただただ破壊の風景が繰り広げられるんだけど、それがものすごい迫力のなかに、何というか、クリーンな感じ。凄惨なはずなのに、そんな風に感じないのが不思議だと思った。ゲームの世界って、こんなんなのかなあ。
ハデスは、ゼウスに父クロノスの番人を命じられたことを恨んでいて、息子アレスは、ゼウスがペルセウスばかりを愛することを恨んでいたのだった。父の危機を知ったペルセウスは、ポセイドンの息子や人間の女王アンドロメダと共に、ゼウスを助け出すため、戦いの旅に出る。
ギリシヤ神話を知らないので、名前がややこしかったし、みんな顔が同じに見えて、始めは誰が誰だか分かりにくかったけど、とにかく映像がすごかった。日本語吹き替えの3Dで観たのだが、すごい臨場感。
口から火を噴く双頭の魔物。石斧を振り下ろす一つ目の大男。どれも凶暴で、ものすごいスピードとすさまじい破壊力。それに、アレスが執拗にゼウスとペルセウスに襲い掛かかってくる。地下の世界に行き着くまでに立ちふさがる石の壁が、上下左右に動いて、危機一髪の場面も迫力。どこまでがCGなのか分からないけど、風景もリアルだった。
クロノスが現れる場面は、きのこ状の火の玉で、原爆みたいと思ったが、その後クロノスが姿を見せると、まさに「ナウシカ」の巨神兵のCG版。とにかく今の技術って、すごいなあ。
嫉妬と怒りのエネルギーのすさまじさ。ただただ破壊の風景が繰り広げられるんだけど、それがものすごい迫力のなかに、何というか、クリーンな感じ。凄惨なはずなのに、そんな風に感じないのが不思議だと思った。ゲームの世界って、こんなんなのかなあ。
2012年05月04日
忌野清志郎 ロックン・ロール・ショー Love&Peace
清志郎の命日、去年に続いて「ロックン・ロール・ショー」に行ってきた。広い広い武道館で、何と前から2列目。超間近で感激だった。
スクリーンに自転車に乗って疾走する清志郎。どんどん武道館に近づいてきて、自転車ごと建物内に。完全復活祭のときは、ド派手な衣装のまま武道館に歩いてくる清志郎がスクリーンに映ってたっけ。清志郎の声でチャボや梅津和時や片山広明らが紹介されて、スクリーンが上がると、彼らが実際に舞台上にいるという演出。
トータス松本と奥田民生による「ロックン・ロール・ショー」、それからトータスのソロで「君が僕を知ってる」「I Like You」。Leyonaに替わって「ラプソディ」「Good Lovin’」。彼女は清志郎の恋人だった人だから、絶対にいなくちゃ。
小泉今日子が浜崎貴司と「つ・き・あ・い・た・い」と「Baby♯1」を歌ってくれた。
Charaはチャボと「ハイウェイのお月様」を歌ったあと、「弾き語りなら何を歌って欲しい?と聞かれ、この曲を言ったら歌ってくれたんです」といって、「指輪をはめたい」を歌った。
絶対来てくれる矢野顕子。「雑踏」と「ひとつだけ」を歌ってくれた。「本人が足らない」といって、寂しそう。「出演者が歌う中に知らない歌もあるけど、覚えてまた歌います」と言っていた。
今回は今まで知らなかったゲストがいて、JUN SKY WALKER が「スローバラード」を歌ったけど、すごくいい声で、高声もよく伸びていた。「もう僕たち最後の曲になっちゃいました」って、清志郎の若い頃のMCをそのまま真似て「キモチE」。これもパンチがあって上手かった。
吉井和哉は、どこかで見た事があると思ったらイエローモンキーのボーカルだった人。タイマーズのファンだったとは知らなかった。ジョン・レノンの「MATHER」を清志郎の訳詩で歌ったけど、これは初めて聴いた。最初の「お母さん」で泣きそうになってしまった。清志郎で聴きたかったなあ。
木村充揮と内田勘太郎が「彼女の笑顔」と「上を向いて歩こう」。「彼女の笑顔」は完全に木村版のアレンジ。でも、何かこの人の声、心に響くなあと思った。歌詞の「何でもかんでも金で買えると思ってるバカなやつら」の次、「買えるのは俺の歌くらいさ」は省いてましたね。清志郎って、毒があったなあ。
去年なんで出てないんだろう、と思った三宅伸治がいて、すごくうれしかった。バックなしのギター一本で「約束」と「JUNP」。「約束」のとき、「ありがとうボス」と歌詞を入れていた。バンマス、チャボと彼の二人でやればいいのに。私がファンになってから、2・3’Sを除けば、清志郎のそばにずっといて、バンドを一緒にやっていたのは、三宅伸治だった。もっともっとこの人に光が当たってほしいなあ、と思う。
それから、同じく去年は来なかったスティーブ・クロッパーも出演し、オーティスの「Dock of the Bay」と「In the Midnight Hour」を歌ってくれた。
斉藤和義は、胸に反原発のバッジをつけて登場。超かっこいい。「君が代騒動のときに、大丈夫ですか?って言ったら、十年に一回くらいは発売禁止になった方がいいんだ、と言われ、ついて行こうと思いましたね」と言って笑いを誘っていた。「エンジェル」と、歌い手として共感するからと「涙あふれて」。彼も歌手が泣きながら歌うのが嫌いなんだろうな。
奥田民生は「あふれる熱い涙」と「誰かがベッドで眠ってる」。奥田が「誰かが〜」を歌ったら、妙に生々しい感じ。この人、ずっと誰かに似てると思ってたけど、急に桂談志だと気づいた。自信満々で不敵で、雰囲気もそっくりじゃん。
斉藤和義と奥田民生の「ドカドカうるさいロックロールバンド」のとき、大きなボールが飛ばされだけど、超前の席だったから、たくさんのボールが次々とんできて、後ろに打ち返すのに忙しかった。復活祭のときは一度も手が届かなかったんだけど。
浜崎と吉井の「トランジスタラジオ」のときは、突然すぐ前で大きな筒から紙ふぶきが吹き上がり、息が苦しいくらいだった。すごい大量の紙ふぶきが襟もとから入ってくるわで、珍しい体験でした。
清志郎は晴れ男で、直前まで雨でもライブが始まると不思議に晴れていたのに、今回は珍しく雨だった。始まる前にお墓に行ったのだが、駅を降りると強い雨足に思わずタクシーに。乗り込んだとたん、「清志郎さんですか?」と言われた。雨なのに今日はたくさんの人が来てるとか。お墓ではカップルがたわしで掃除をしてくれていた。あふれるほどのたくさんの花が、雨に濡れてきれいだった。
翌日は、予約していたはとバスのツアーに。一回乗ってみたかったんだよね。雨だというのに、待合の所がすごい人だかりでびっくり。皇居を歩いて、宮内庁が意外にもこじんまりしてることに、へえ〜っ!って思って、次に二重橋の説明を聞いているとき、ザアザア降りになり、足元は御所にそっくりな砂利で、たちまち水浸しになってしまった。
それから、隅田川を下って、浅草観音へ。まさに、おのぼりさんコースでした。灯りのきれいさに眼を見張った4年前と全然違って、見えるのは傘ばかりで、雨なのにすごい人出。
それから、六本木ヒルズへ。建ってからかなり経つけど、初めて登った。でも、雨のせいで窓は真っ白。何とか足元だけが見えたけど、せっかくの52階からの眺望はゼロだった。
時間を持て余したので、ヒルズの中の「森の美術館」に入り、分けも分からないまま「イ・ブル展」を観たら、入った途端、気味の悪い塊に立ちすくんでしまった。
よく見ると、頭部のない複数の人体が、きれいに組み合わさって、いくもの手が下がっている。内臓とか、腐敗のイメージも。銀色の金属とかガラスとかで出来た、きらびやかで繊細な造形のものも、よく見ると、吊るされて崩れていく女性の身体。目をくりぬいた金魚に造花のピンをいっぱい留めた映像を映す大きなスクリーン。
いろんな素材で繰り返し作ったうなだれた犬。何かを吐いている犬も。違う部屋に進むと、金属とガラスで作った大きな物体があって、窓に向かって、ドレスの裾のように素材が広がっている。不気味だけどきれいだな、と思って横から見ると、何とそれは犬で、頭部が吐しゃ物と一緒に崩壊しているのだ。そうか、これはさっきの犬たちの完成形なんだ。
彼女の作品は、造形が美しくてどこまでも繊細なのに、どれも死のイメージが満ちて、残酷。草間弥生が生を喚起しているとすれば、その真逆かもしれない。だが、強烈さは多分同じ。韓国が軍事政権だった頃と、製作年代が重なっているそうだ。心の準備なしに見て、本当にショッキングだった。
スクリーンに自転車に乗って疾走する清志郎。どんどん武道館に近づいてきて、自転車ごと建物内に。完全復活祭のときは、ド派手な衣装のまま武道館に歩いてくる清志郎がスクリーンに映ってたっけ。清志郎の声でチャボや梅津和時や片山広明らが紹介されて、スクリーンが上がると、彼らが実際に舞台上にいるという演出。
トータス松本と奥田民生による「ロックン・ロール・ショー」、それからトータスのソロで「君が僕を知ってる」「I Like You」。Leyonaに替わって「ラプソディ」「Good Lovin’」。彼女は清志郎の恋人だった人だから、絶対にいなくちゃ。
小泉今日子が浜崎貴司と「つ・き・あ・い・た・い」と「Baby♯1」を歌ってくれた。
Charaはチャボと「ハイウェイのお月様」を歌ったあと、「弾き語りなら何を歌って欲しい?と聞かれ、この曲を言ったら歌ってくれたんです」といって、「指輪をはめたい」を歌った。
絶対来てくれる矢野顕子。「雑踏」と「ひとつだけ」を歌ってくれた。「本人が足らない」といって、寂しそう。「出演者が歌う中に知らない歌もあるけど、覚えてまた歌います」と言っていた。
今回は今まで知らなかったゲストがいて、JUN SKY WALKER が「スローバラード」を歌ったけど、すごくいい声で、高声もよく伸びていた。「もう僕たち最後の曲になっちゃいました」って、清志郎の若い頃のMCをそのまま真似て「キモチE」。これもパンチがあって上手かった。
吉井和哉は、どこかで見た事があると思ったらイエローモンキーのボーカルだった人。タイマーズのファンだったとは知らなかった。ジョン・レノンの「MATHER」を清志郎の訳詩で歌ったけど、これは初めて聴いた。最初の「お母さん」で泣きそうになってしまった。清志郎で聴きたかったなあ。
木村充揮と内田勘太郎が「彼女の笑顔」と「上を向いて歩こう」。「彼女の笑顔」は完全に木村版のアレンジ。でも、何かこの人の声、心に響くなあと思った。歌詞の「何でもかんでも金で買えると思ってるバカなやつら」の次、「買えるのは俺の歌くらいさ」は省いてましたね。清志郎って、毒があったなあ。
去年なんで出てないんだろう、と思った三宅伸治がいて、すごくうれしかった。バックなしのギター一本で「約束」と「JUNP」。「約束」のとき、「ありがとうボス」と歌詞を入れていた。バンマス、チャボと彼の二人でやればいいのに。私がファンになってから、2・3’Sを除けば、清志郎のそばにずっといて、バンドを一緒にやっていたのは、三宅伸治だった。もっともっとこの人に光が当たってほしいなあ、と思う。
それから、同じく去年は来なかったスティーブ・クロッパーも出演し、オーティスの「Dock of the Bay」と「In the Midnight Hour」を歌ってくれた。
斉藤和義は、胸に反原発のバッジをつけて登場。超かっこいい。「君が代騒動のときに、大丈夫ですか?って言ったら、十年に一回くらいは発売禁止になった方がいいんだ、と言われ、ついて行こうと思いましたね」と言って笑いを誘っていた。「エンジェル」と、歌い手として共感するからと「涙あふれて」。彼も歌手が泣きながら歌うのが嫌いなんだろうな。
奥田民生は「あふれる熱い涙」と「誰かがベッドで眠ってる」。奥田が「誰かが〜」を歌ったら、妙に生々しい感じ。この人、ずっと誰かに似てると思ってたけど、急に桂談志だと気づいた。自信満々で不敵で、雰囲気もそっくりじゃん。
斉藤和義と奥田民生の「ドカドカうるさいロックロールバンド」のとき、大きなボールが飛ばされだけど、超前の席だったから、たくさんのボールが次々とんできて、後ろに打ち返すのに忙しかった。復活祭のときは一度も手が届かなかったんだけど。
浜崎と吉井の「トランジスタラジオ」のときは、突然すぐ前で大きな筒から紙ふぶきが吹き上がり、息が苦しいくらいだった。すごい大量の紙ふぶきが襟もとから入ってくるわで、珍しい体験でした。
清志郎は晴れ男で、直前まで雨でもライブが始まると不思議に晴れていたのに、今回は珍しく雨だった。始まる前にお墓に行ったのだが、駅を降りると強い雨足に思わずタクシーに。乗り込んだとたん、「清志郎さんですか?」と言われた。雨なのに今日はたくさんの人が来てるとか。お墓ではカップルがたわしで掃除をしてくれていた。あふれるほどのたくさんの花が、雨に濡れてきれいだった。
翌日は、予約していたはとバスのツアーに。一回乗ってみたかったんだよね。雨だというのに、待合の所がすごい人だかりでびっくり。皇居を歩いて、宮内庁が意外にもこじんまりしてることに、へえ〜っ!って思って、次に二重橋の説明を聞いているとき、ザアザア降りになり、足元は御所にそっくりな砂利で、たちまち水浸しになってしまった。
それから、隅田川を下って、浅草観音へ。まさに、おのぼりさんコースでした。灯りのきれいさに眼を見張った4年前と全然違って、見えるのは傘ばかりで、雨なのにすごい人出。
それから、六本木ヒルズへ。建ってからかなり経つけど、初めて登った。でも、雨のせいで窓は真っ白。何とか足元だけが見えたけど、せっかくの52階からの眺望はゼロだった。
時間を持て余したので、ヒルズの中の「森の美術館」に入り、分けも分からないまま「イ・ブル展」を観たら、入った途端、気味の悪い塊に立ちすくんでしまった。
よく見ると、頭部のない複数の人体が、きれいに組み合わさって、いくもの手が下がっている。内臓とか、腐敗のイメージも。銀色の金属とかガラスとかで出来た、きらびやかで繊細な造形のものも、よく見ると、吊るされて崩れていく女性の身体。目をくりぬいた金魚に造花のピンをいっぱい留めた映像を映す大きなスクリーン。
いろんな素材で繰り返し作ったうなだれた犬。何かを吐いている犬も。違う部屋に進むと、金属とガラスで作った大きな物体があって、窓に向かって、ドレスの裾のように素材が広がっている。不気味だけどきれいだな、と思って横から見ると、何とそれは犬で、頭部が吐しゃ物と一緒に崩壊しているのだ。そうか、これはさっきの犬たちの完成形なんだ。
彼女の作品は、造形が美しくてどこまでも繊細なのに、どれも死のイメージが満ちて、残酷。草間弥生が生を喚起しているとすれば、その真逆かもしれない。だが、強烈さは多分同じ。韓国が軍事政権だった頃と、製作年代が重なっているそうだ。心の準備なしに見て、本当にショッキングだった。
2012年05月01日
モモへの手紙
母が子どもの頃に過ごした瀬戸内の島に、母と二人で引っ越してきた11歳のモモ。フェリーの甲板で空からしずくのような透明な塊が3つ、モモに落ちてきて、大叔父の家に着いてからも、彼女に不思議なことが起きていく。
プリンが3つも空になっていたり、おばけのようなものを目撃したり。それは天から遣わされた「見守り人」の妖怪たち。鬼のような大きなイワと、河童かカエルのようなひょろりとしたカワ、何でもすぐに忘れる子どものようなマメは、畑から野菜を盗むし、女の子の小物をくすねるし。始めは怖がっていたモモは、素行も頭もよくない彼らに困りながらも、次第に慣れていく。
島の古くて穏やかな街並み。思い切り時代物の家に少女が引っ越してくる、という設定は「トトロ」を思い出した。写真のように精密に描かれた風景がきれい。「グランサン」とか「コゴメケチャップ」とか「よ〜しお茶」とか、実際と少しだけずれた表記がいっぱいで楽しかった。
モモは、父が事故で亡くなる直前に、父に言ってしまった冷たい言葉を後悔していた。調査で休みが取れないという父に、「もう帰ってこなくていい」と口走り、そのとおり父は帰らぬ人になってしまった。父の引き出しに「モモへ」とだけ書かれた便箋を見つけた彼女は、続きのない手紙に父の思いを感じて泣いた。
大切な人が急にいなくなる。それまで当たり前だった日常が遠くに去り、逝った人は永久に戻らない。そして、その戻らない人の存在はすごく大きい。一方、母が当たらしい生活のために気丈に振舞う姿は、娘の眼からは父を忘れているように見え、母が実は悲しみと闘っているのが分からない。母は、自分の心で精一杯で、娘の寂しさを心ならずも置き去り。
見守り人の3人は野菜を盗み続け、カワは父が母に買った手鏡を勝ってに使って返さない。それを見
咎めたモモともみ合って手鏡が割れ、母がそこに駆けつける。ドジでいいかげんな妖怪のおかげで二人のすれ違いが大きくなるが、その事件で二人の絆が確かめられるドラマが起きる。
母が過呼吸で倒れ、医者を呼ぶために、モモを乗せたバイクが嵐のなかを走っていく。倒れそうになるバイクを守るため、大勢の妖怪たちが重なってトンネルを作り、巨大な塊になって進んでいく。この場面は、「トトロ」のネコバスを思い出した。
イワたちは、「空」に送るための報告書に、父の書きかけの便箋を使ってしまっていた。わらで編んだ船で祖先の霊を迎える島の行事。その船が運んできた手紙には、父からのメッセージが。妖怪たちがいるのだから、天国から手紙が着いてもおかしくない。父がモモを今も思ってくれている証。その温かな短い文。引き裂かれた家族、海辺の街、暴風で荒れ狂う波など、3・11が強く意識されているのかもしれない、と思った。言ってほしい言葉が書かれている切なさ。それがすぐに消えてしまう寂しさ。でも言葉が心に残る温かさ。ラストが切なかった。
プリンが3つも空になっていたり、おばけのようなものを目撃したり。それは天から遣わされた「見守り人」の妖怪たち。鬼のような大きなイワと、河童かカエルのようなひょろりとしたカワ、何でもすぐに忘れる子どものようなマメは、畑から野菜を盗むし、女の子の小物をくすねるし。始めは怖がっていたモモは、素行も頭もよくない彼らに困りながらも、次第に慣れていく。
島の古くて穏やかな街並み。思い切り時代物の家に少女が引っ越してくる、という設定は「トトロ」を思い出した。写真のように精密に描かれた風景がきれい。「グランサン」とか「コゴメケチャップ」とか「よ〜しお茶」とか、実際と少しだけずれた表記がいっぱいで楽しかった。
モモは、父が事故で亡くなる直前に、父に言ってしまった冷たい言葉を後悔していた。調査で休みが取れないという父に、「もう帰ってこなくていい」と口走り、そのとおり父は帰らぬ人になってしまった。父の引き出しに「モモへ」とだけ書かれた便箋を見つけた彼女は、続きのない手紙に父の思いを感じて泣いた。
大切な人が急にいなくなる。それまで当たり前だった日常が遠くに去り、逝った人は永久に戻らない。そして、その戻らない人の存在はすごく大きい。一方、母が当たらしい生活のために気丈に振舞う姿は、娘の眼からは父を忘れているように見え、母が実は悲しみと闘っているのが分からない。母は、自分の心で精一杯で、娘の寂しさを心ならずも置き去り。
見守り人の3人は野菜を盗み続け、カワは父が母に買った手鏡を勝ってに使って返さない。それを見
咎めたモモともみ合って手鏡が割れ、母がそこに駆けつける。ドジでいいかげんな妖怪のおかげで二人のすれ違いが大きくなるが、その事件で二人の絆が確かめられるドラマが起きる。
母が過呼吸で倒れ、医者を呼ぶために、モモを乗せたバイクが嵐のなかを走っていく。倒れそうになるバイクを守るため、大勢の妖怪たちが重なってトンネルを作り、巨大な塊になって進んでいく。この場面は、「トトロ」のネコバスを思い出した。
イワたちは、「空」に送るための報告書に、父の書きかけの便箋を使ってしまっていた。わらで編んだ船で祖先の霊を迎える島の行事。その船が運んできた手紙には、父からのメッセージが。妖怪たちがいるのだから、天国から手紙が着いてもおかしくない。父がモモを今も思ってくれている証。その温かな短い文。引き裂かれた家族、海辺の街、暴風で荒れ狂う波など、3・11が強く意識されているのかもしれない、と思った。言ってほしい言葉が書かれている切なさ。それがすぐに消えてしまう寂しさ。でも言葉が心に残る温かさ。ラストが切なかった。
2012年04月29日
戦火の馬
しばらくブログを更新せず、読んでくださっている方にご心配をかけました。実は観たかった映画をいくつも見逃してしまって、いつの間にか遠ざかってしまっていました。観たのに書いていなかった映画もあって、怠慢でした。心を入れ替えて、再開します。とっくに終わった作品ですが、「戦火の馬」、よかったです。
イギリス南西部の村に生まれた一頭の美しい馬。小作人の息子アルバート・ナラコット(ジェレミー・アーヴァイン)は、その子馬に魅了される。競売にかけられたその馬に、アルバートの父テッド(ピーター・ミュラン)も引きつけられ、地主と競り合って手に入れ、アルバートは彼をジョーイと名づけて心を通わせていく。だが、貧しい暮らしに不相応な高値で馬を買ったうえ、荒れた農地からは収穫ができず、一家は地主に立ち退きを迫られてしまう。家族の危機を救うため、アルバートはジョーイに鋤をつけて奮闘するが、苦労して作った作物は嵐にやられ、ジョーイはニコルズ大佐に売られてしまった。
緑が輝く広大な風景。だがそこは岩が切り立つ荒地で、収穫するためには非情な自然と闘わねば鳴らない。車を引くジョーイの力強さ。傷だらけになりながら耕し終えたアルバートは、足が悪く飲んだくれの父が、実はボーア戦争の英雄で、勇敢さを称えられながらも、人を殺したことで心に傷を抱えていたことを知る。
アルバートがジョーイと別れた時、父の農民旗をジョーイの鞍にくくりつけるが、この旗には、少年の馬への愛情と、歴史の一幕を生きた父への尊敬が込められているのだ。
ジョーイはこの後、戦争のただ中を走り抜けていく。ニコルズ大佐は彼を大事にし、アルバートを安心させようと馬の絵を送るが、急襲作戦で命を落とす。剣を抜いた騎馬隊がドイツ軍の機銃掃射に遭う場面は、桶狭間の戦いを連想した。ドイツ軍に捕まったジョーイは、黒馬インプソーンとともに、傷病平を運ぶ車を引かされるが、彼の世話をしていた兄弟は二頭に乗って脱走。二人が見つかってしまった後は、隠れ家だった風車小屋の持ち主である農場主と孫娘エミリーに引き取られる。だが、その後、再びドイツ兵に見つかり、大砲を引くために使われる。
ニコルズ大佐は優しい紳士だった。脱走した兄弟は、臆病だったのではなく、兄が母に弟を守れといわれていたのだった。まだとても若いのに、汚名を着たまま死んだ二人。彼らを待っていた母の嘆きはどんなだったろう。エミリーは略奪にきたドイツ兵に両親を殺されていた。
イギリス人もフランス人もドイツ人も、普通の善良な人々が大切な家族や命を失くし、傷を負っている。戦争の理不尽さ。人間の目からは、ジョーイは敵味方の区別のない、一頭の馬。そして、ジョーイにとっても、自分に近づいてくる人間が何人であるかは、区別のつかないことだ。
戦場での馬の運命は過酷なものだ。重い大砲を引いて坂を登り、傷を負ったり使えなくなれば殺される。負傷兵は手当てされるのに。重要な役目を担っているのに、大切にされない。あまりにも過酷で無残な運命に心が痛んだ。そんな状況を、ジョーイは驚異的な体力で耐え抜いていく。そして、そんなジョーイをめぐって、人間らしい側面を見せる兵士たちが描かれる。大砲を引かせている馬たちに、名前をつけて気遣う男。鉄条網にからまったジョーイを見つけたとき、イギリス軍の側からも、ドイツ軍の側からも、ジョーイを助けようと兵士が塹壕から出てきて、彼を助けるために協力する。友人になれたかもしれない彼ら。だが、別れたあとはまた戦うしかないのだ。
ジョーイは不思議な運命に導かれる。もし彼を助けた二人の兵士のうち、イギリス兵が賭けに勝たなければ、彼はアルバートのいる場所にはつれてこられなかっただろう。破傷風だからと射殺されようとした瞬間、アルバートの口笛にかをあげ、めが見えなくなったアルバートとジョーイが再会する場面は感動的だった。だが、無情にもジョーイは競売にかけられる。だが、それを戦友たちが救い、かつてのジョーイの飼い主が救う。戦馬が生き残るのはまずなかったろうし、それが元の飼い主と再会するのもまれだったろう。ジョーイの運命には、生き残ることや人間の善意に対する熱い希望が託されているのだと思う。
ジョーイが家に帰って来た奇跡。二人が家に戻り、アルバートが農民旗を父に渡して抱き合う場面。穏やかなジョーイの表情と真っ赤な夕日が美しかった。
イギリス南西部の村に生まれた一頭の美しい馬。小作人の息子アルバート・ナラコット(ジェレミー・アーヴァイン)は、その子馬に魅了される。競売にかけられたその馬に、アルバートの父テッド(ピーター・ミュラン)も引きつけられ、地主と競り合って手に入れ、アルバートは彼をジョーイと名づけて心を通わせていく。だが、貧しい暮らしに不相応な高値で馬を買ったうえ、荒れた農地からは収穫ができず、一家は地主に立ち退きを迫られてしまう。家族の危機を救うため、アルバートはジョーイに鋤をつけて奮闘するが、苦労して作った作物は嵐にやられ、ジョーイはニコルズ大佐に売られてしまった。
緑が輝く広大な風景。だがそこは岩が切り立つ荒地で、収穫するためには非情な自然と闘わねば鳴らない。車を引くジョーイの力強さ。傷だらけになりながら耕し終えたアルバートは、足が悪く飲んだくれの父が、実はボーア戦争の英雄で、勇敢さを称えられながらも、人を殺したことで心に傷を抱えていたことを知る。
アルバートがジョーイと別れた時、父の農民旗をジョーイの鞍にくくりつけるが、この旗には、少年の馬への愛情と、歴史の一幕を生きた父への尊敬が込められているのだ。
ジョーイはこの後、戦争のただ中を走り抜けていく。ニコルズ大佐は彼を大事にし、アルバートを安心させようと馬の絵を送るが、急襲作戦で命を落とす。剣を抜いた騎馬隊がドイツ軍の機銃掃射に遭う場面は、桶狭間の戦いを連想した。ドイツ軍に捕まったジョーイは、黒馬インプソーンとともに、傷病平を運ぶ車を引かされるが、彼の世話をしていた兄弟は二頭に乗って脱走。二人が見つかってしまった後は、隠れ家だった風車小屋の持ち主である農場主と孫娘エミリーに引き取られる。だが、その後、再びドイツ兵に見つかり、大砲を引くために使われる。
ニコルズ大佐は優しい紳士だった。脱走した兄弟は、臆病だったのではなく、兄が母に弟を守れといわれていたのだった。まだとても若いのに、汚名を着たまま死んだ二人。彼らを待っていた母の嘆きはどんなだったろう。エミリーは略奪にきたドイツ兵に両親を殺されていた。
イギリス人もフランス人もドイツ人も、普通の善良な人々が大切な家族や命を失くし、傷を負っている。戦争の理不尽さ。人間の目からは、ジョーイは敵味方の区別のない、一頭の馬。そして、ジョーイにとっても、自分に近づいてくる人間が何人であるかは、区別のつかないことだ。
戦場での馬の運命は過酷なものだ。重い大砲を引いて坂を登り、傷を負ったり使えなくなれば殺される。負傷兵は手当てされるのに。重要な役目を担っているのに、大切にされない。あまりにも過酷で無残な運命に心が痛んだ。そんな状況を、ジョーイは驚異的な体力で耐え抜いていく。そして、そんなジョーイをめぐって、人間らしい側面を見せる兵士たちが描かれる。大砲を引かせている馬たちに、名前をつけて気遣う男。鉄条網にからまったジョーイを見つけたとき、イギリス軍の側からも、ドイツ軍の側からも、ジョーイを助けようと兵士が塹壕から出てきて、彼を助けるために協力する。友人になれたかもしれない彼ら。だが、別れたあとはまた戦うしかないのだ。
ジョーイは不思議な運命に導かれる。もし彼を助けた二人の兵士のうち、イギリス兵が賭けに勝たなければ、彼はアルバートのいる場所にはつれてこられなかっただろう。破傷風だからと射殺されようとした瞬間、アルバートの口笛にかをあげ、めが見えなくなったアルバートとジョーイが再会する場面は感動的だった。だが、無情にもジョーイは競売にかけられる。だが、それを戦友たちが救い、かつてのジョーイの飼い主が救う。戦馬が生き残るのはまずなかったろうし、それが元の飼い主と再会するのもまれだったろう。ジョーイの運命には、生き残ることや人間の善意に対する熱い希望が託されているのだと思う。
ジョーイが家に帰って来た奇跡。二人が家に戻り、アルバートが農民旗を父に渡して抱き合う場面。穏やかなジョーイの表情と真っ赤な夕日が美しかった。
2012年04月07日
京都市交響楽団 スプリング・コンサート
京都コンサートホールで京響のスプリング・コンサートを聴いた。
1曲目のドヴォルザーク「スラヴ舞曲第1番」は、快活な感じの分かりやすい曲だった。明るくて伸
びやかで、何より春らしい感じがした。
続いて同じくドヴォルザークの有名な「ユーモレスク」。青いヴァイオリンを持ったチェコのヴァイオリスト・パヴェル・シュポルツルが現れ、うっとりするメロディーが流れた。これも春の気分にぴったりで、しっとりしていながら浮き立つような心地。
3曲めが始まるまで、少し時間がかかっているなあ、と思っていると、指揮者が、青いヴァイオリンの人が頭にしている黒いバンダナを真似て、赤いバンダナをして現れ、「ツィゴイネルワイゼン」が始まった。よく知っている曲だけど、生で聴くのは初めて。物悲しくも、情動に響いてくる曲だと思った。
ヴァイオリン独奏のアンコールでは、パガニーニの「カプリス5番」とバッハの「パルヴィータ3番」を弾いてくれたが、パガニーニの曲は練習曲のような感じのメロディーだったけど、すごい早弾きの超絶技巧がすごかった。
休憩をはさんで第2部は、ベートーベンの「交響曲第7番イ長調」。勢いがあるけど繊細で、すごく長い曲だったけど、全然集中力が切れないのがすごいと思った。アンコールはモーツァルトの「ディベルティメントニ長調」。聞き覚えのあるメロディーで、優雅だった。
今日は2階のバルコニー席。ちょうど舞台の真上で、指揮者の表情や、演奏者の細かい指使いとかがよく見えて、すごい臨場感だった。
午前中は近くの植物園を歩いて、肌寒かったけど花を満喫。椿はもうほとんど終わっていたけど、たくさんの種類の桜が見れて、とてもきれいだった。あと数日してまた来れたら、きっともっとすごいだろうなあ。
1曲目のドヴォルザーク「スラヴ舞曲第1番」は、快活な感じの分かりやすい曲だった。明るくて伸
びやかで、何より春らしい感じがした。
続いて同じくドヴォルザークの有名な「ユーモレスク」。青いヴァイオリンを持ったチェコのヴァイオリスト・パヴェル・シュポルツルが現れ、うっとりするメロディーが流れた。これも春の気分にぴったりで、しっとりしていながら浮き立つような心地。
3曲めが始まるまで、少し時間がかかっているなあ、と思っていると、指揮者が、青いヴァイオリンの人が頭にしている黒いバンダナを真似て、赤いバンダナをして現れ、「ツィゴイネルワイゼン」が始まった。よく知っている曲だけど、生で聴くのは初めて。物悲しくも、情動に響いてくる曲だと思った。
ヴァイオリン独奏のアンコールでは、パガニーニの「カプリス5番」とバッハの「パルヴィータ3番」を弾いてくれたが、パガニーニの曲は練習曲のような感じのメロディーだったけど、すごい早弾きの超絶技巧がすごかった。
休憩をはさんで第2部は、ベートーベンの「交響曲第7番イ長調」。勢いがあるけど繊細で、すごく長い曲だったけど、全然集中力が切れないのがすごいと思った。アンコールはモーツァルトの「ディベルティメントニ長調」。聞き覚えのあるメロディーで、優雅だった。
今日は2階のバルコニー席。ちょうど舞台の真上で、指揮者の表情や、演奏者の細かい指使いとかがよく見えて、すごい臨場感だった。
午前中は近くの植物園を歩いて、肌寒かったけど花を満喫。椿はもうほとんど終わっていたけど、たくさんの種類の桜が見れて、とてもきれいだった。あと数日してまた来れたら、きっともっとすごいだろうなあ。
2012年03月23日
風にそよぐ草
お気に入りの店で靴を買ったあと、カバンの引ったくりに遭ってしまった女(サビーヌ・アマゼ)。動転した彼女は、家に帰って風呂につかり、するべき届出を明日に持ち越す。一方、男(アンドレ・デュソリエ)は、時計を修理に出した帰りに、駐車場で女物の財布を拾い、小型飛行機の操縦免許証と写真に目を留める。女がすぐに警察に行かないのと同様、落とし主にかける電話の言葉を思案しながら、彼は財布を家に持ち帰った。
風呂につかって顔を天井に向けるまで、女の顔は画面に映らない。それまで、細身のスタイルのいい姿は若く見えたが、中年の女性。彼女マルグリット・ミュイールは忙しく家を空けているが、彼女が歯科医だというのが分かるのは、映画の中盤になってから。
一方男は、若い女の子が下品な服装をしているの見ると、欲望を挑発するからと、殺意を抱く。警官(マチュー・アルマリック)にジョルジョ・パレだと名乗ったとたん、自分の素性に気づいたのではないかと警戒し、彼を殺そうかとふと思う。彼は前科のあるぶっそうな人物なのか。だが、後見人なのかもと思っていた若い美人は彼の妻で、娘と息子、孫までいるではないか。
だが、ちょっとした興味やアバンチュールの想像にとどまらないジョルジュの行動は、かなりぶっそう。相手とどうにかつながりたいという切迫した気持ちや、不器用さ、恥や怒りの混じった思いのせいで、実に偏執的に見えるのだ。
お礼の電話を受けたジョルジュは、会いたいと言われるのを期待するが、マルグリットのそっけなさに傷ついてムッとする。だが、すぐに自分の態度に後悔し、それを伝えるために、彼女のアパートに手紙を届ける。そして、彼女から短い返事が届くや、今度は長々と自分の人生を手紙に綴り、毎日のように留守電にメッセージを入れ、攻勢に疲れたマルグリットの車をパンクさせる。
臆病さや自分の気持ちのままならさ。相手の思いを無視して突き進む頑固さ。よく知らない相手にこだわる姿は、まるで恋に恋しているよう。
そして、ジョルジュに困惑していたマルグリットの心のなかで、彼の存在が次第に大きくなっていく。彼女もまた、誰かを愛し、愛されたいと思っているのだ。
映画館の前のカフェで、ジョルジュを待つ彼女。そして、顔も知らない相手を見分け、彼に近づく。だが、飛行機のことを話し出したジョルジュに、夫婦で乗りにくるようにいうと、途端に彼は怒り出した。わざわざ自分を待ち伏せた女の気持ちを、ジョルジュは正確に想像した。だが、相手が少しでも自分の期待にはずれて振舞うと、失望して激昂する。それほど彼の思いが強いということなのか。彼の余裕のなさには、自信のなさや、幻滅に対する恐怖がにじんでいると思う。
ところが、ジョルジュに冷たくされたマルグリットは、仕事が手につかなくなってしまう。彼の家を訪ねても、つれなく帰される。自分の車のタイヤをパンクさせた男。会ったばかりで自分を拒絶し、家まで行っても追い出した男。どう考えても常軌を逸しているように見える相手に対して、マルグリットは思いをつのらせる。常軌を逸しているのは、今度はマルグリットの方だ。
アスファルトの割れ目から伸びた雑草が繰り返し画面に映り、二人の情熱を表しているよう。人を動かすままならない衝動。周囲の者はそのとばっちりを受けるが、保護者のようにジョルジュを見守る彼の妻は、彼の恋までも見守っているようで奇妙。マルグリットを助けて彼女をジョルジュの家まで送ってきたジョセファ(エマニュエル・ドヴォス)が、ジョルジュの誘惑を易々と受け入れるのも、奇妙に感じられた。
飛行場の建物のなかで、偶然二人きりになったジョルジュとマルグリットは、瞬時に抱き合う。その画面に「終わり」の文字が重なって、思いがけなさに驚いた。シーソーゲームにケリがついたからといって、恋愛はここから始まるのだから、このおかしな二人のおかしな恋のゆくえが知りたいのに。
驚かせておいて映画はここでは終わらなかったが、二人には思いがけない運命が待っていた。少年の頃から飛行機にあこがれていたジョルジュ。往年の女飛行士に似ていると思うマルグリットの横に座り、彼女に言われて操縦桿を握った。何度も何度も宙返りする機体のなかで、ジョジュルはやはりきっと怒っていたのだろう。マルグリットは何を思っただろうか。そして、本当の「終わり」も、驚くほどあっけないものだった。
風呂につかって顔を天井に向けるまで、女の顔は画面に映らない。それまで、細身のスタイルのいい姿は若く見えたが、中年の女性。彼女マルグリット・ミュイールは忙しく家を空けているが、彼女が歯科医だというのが分かるのは、映画の中盤になってから。
一方男は、若い女の子が下品な服装をしているの見ると、欲望を挑発するからと、殺意を抱く。警官(マチュー・アルマリック)にジョルジョ・パレだと名乗ったとたん、自分の素性に気づいたのではないかと警戒し、彼を殺そうかとふと思う。彼は前科のあるぶっそうな人物なのか。だが、後見人なのかもと思っていた若い美人は彼の妻で、娘と息子、孫までいるではないか。
だが、ちょっとした興味やアバンチュールの想像にとどまらないジョルジュの行動は、かなりぶっそう。相手とどうにかつながりたいという切迫した気持ちや、不器用さ、恥や怒りの混じった思いのせいで、実に偏執的に見えるのだ。
お礼の電話を受けたジョルジュは、会いたいと言われるのを期待するが、マルグリットのそっけなさに傷ついてムッとする。だが、すぐに自分の態度に後悔し、それを伝えるために、彼女のアパートに手紙を届ける。そして、彼女から短い返事が届くや、今度は長々と自分の人生を手紙に綴り、毎日のように留守電にメッセージを入れ、攻勢に疲れたマルグリットの車をパンクさせる。
臆病さや自分の気持ちのままならさ。相手の思いを無視して突き進む頑固さ。よく知らない相手にこだわる姿は、まるで恋に恋しているよう。
そして、ジョルジュに困惑していたマルグリットの心のなかで、彼の存在が次第に大きくなっていく。彼女もまた、誰かを愛し、愛されたいと思っているのだ。
映画館の前のカフェで、ジョルジュを待つ彼女。そして、顔も知らない相手を見分け、彼に近づく。だが、飛行機のことを話し出したジョルジュに、夫婦で乗りにくるようにいうと、途端に彼は怒り出した。わざわざ自分を待ち伏せた女の気持ちを、ジョルジュは正確に想像した。だが、相手が少しでも自分の期待にはずれて振舞うと、失望して激昂する。それほど彼の思いが強いということなのか。彼の余裕のなさには、自信のなさや、幻滅に対する恐怖がにじんでいると思う。
ところが、ジョルジュに冷たくされたマルグリットは、仕事が手につかなくなってしまう。彼の家を訪ねても、つれなく帰される。自分の車のタイヤをパンクさせた男。会ったばかりで自分を拒絶し、家まで行っても追い出した男。どう考えても常軌を逸しているように見える相手に対して、マルグリットは思いをつのらせる。常軌を逸しているのは、今度はマルグリットの方だ。
アスファルトの割れ目から伸びた雑草が繰り返し画面に映り、二人の情熱を表しているよう。人を動かすままならない衝動。周囲の者はそのとばっちりを受けるが、保護者のようにジョルジュを見守る彼の妻は、彼の恋までも見守っているようで奇妙。マルグリットを助けて彼女をジョルジュの家まで送ってきたジョセファ(エマニュエル・ドヴォス)が、ジョルジュの誘惑を易々と受け入れるのも、奇妙に感じられた。
飛行場の建物のなかで、偶然二人きりになったジョルジュとマルグリットは、瞬時に抱き合う。その画面に「終わり」の文字が重なって、思いがけなさに驚いた。シーソーゲームにケリがついたからといって、恋愛はここから始まるのだから、このおかしな二人のおかしな恋のゆくえが知りたいのに。
驚かせておいて映画はここでは終わらなかったが、二人には思いがけない運命が待っていた。少年の頃から飛行機にあこがれていたジョルジュ。往年の女飛行士に似ていると思うマルグリットの横に座り、彼女に言われて操縦桿を握った。何度も何度も宙返りする機体のなかで、ジョジュルはやはりきっと怒っていたのだろう。マルグリットは何を思っただろうか。そして、本当の「終わり」も、驚くほどあっけないものだった。
2012年03月21日
汽車はふたたび故郷へ
学校でこっそりタバコを吸ったり、汽車のハシゴにつかまって遠出し、聖人画を盗んだり。大人が彼らを叱ったと思うと、別の大人が彼らに酒を飲ませたり。男の子二人と女の子一人の、そんな仲間が大人になり、そのうちの一人ニコラスは映画監督に。そして、あとの二人も変わらず彼のそばにいる。
舞台は旧ソ連時代のグルジア。緑の多い牧歌的な風景が、さびしげでどこか懐かしい。古びた建物の入り口が地下に向かってついていて、暗い地階に店や部屋がある。人々は互いに手をパチンと合わせて挨拶する。登場人物は、働きながらもしょっちゅう酒を飲んでいて、背広の下にワインを持ち歩き、相手が牧師でも政府高官でも、賄賂にワインが使われたり、教会がまるで廃墟のようで牧師がホームレスのように見えたり。老人たちのカップルがダンスし、おばあさん二人が見事なピアノの連弾をしたり。映っている情景が珍しかった。
ニコラスは苦労して映画を作るが、権力による銃殺場面のある内容が検閲にひっかかって、公開禁止になってしまう。フランスから大使が来て、ニコがその滞在先を訪ねるが、盗聴を恐れて筆談をする。だが、その一部始終は何者かに監視されている。フィルムを持ち出してもばれ、ニコラスは投獄され、暴行を受ける。ニコは実は名門の出で、政府高官の勧めでフランスへ出国。新しい土地で撮影に取り掛かるが、そこでも困難が待ち構えていた。
グルジアでの仕事中、期間の延長にイラついた製作責任者が’プロ’の編集者を呼び、編集者がフィルムを適当に切ってしまう。フランスでも、プロデューサーたちがニコのフィルムを勝手に編集。そして、手を出してくる連中は、国が違ってもみな似たような老人たちだ。フランスにいても、ニコは盗聴を恐れ、家族への手紙を伝書鳩に託す。ここでも彼は監視の対象だった。
だが、何より変わらないのは、ニコラス自身。彼のフィルムの長いこと。グルジアでも何巻もが机に積み上げられていたが、フランスでも同じ。グルジアでの作品は、歴史ものという形が分かったが、フランスで撮影された作品の意図はまるで分からない。
乳母車に乗せられた赤ん坊の列や、磔刑にされるキリストに扮した男たちや、タップダンスをする尼さんたちなど、オーディションにやってくる人たちの群れが笑いを誘う。彼らから、どんな映画ができたのだろうか。一方で、散歩する犬が延々と映る場面。
結局フランスで作った映画は、上映中に管曲のほとんどが途中で帰ってしまうが、それはプロデューサーたちのせいなのか、もともとの内容のせいなのか、観ている方には判断がつかない。はっきりしていることは、ニコが観客を楽しまそうとは全然思っていないことと、そんな自分の方針を絶対に曲げたくないことだ。
そして、この映画自体、かなりこだわりの強い頑固な作り。カメラはほとんど動かずじっと人物たちを見つめ、何でもない情景にこだわって、それがさりげなく自然でドキュメントのように感じられるかと思うと、突然人魚が出てきたり。暴行シーンとか息苦しい状況がリアルな一方、グルジアとフランスのかなりの距離を伝書鳩、というのは空想的だ。
行くところ壁だらけで、いつも不機嫌な主人公だが、彼に関係なくクスっと笑える場面もあった。幼い日々の思い出と、老いた祖父母や母のいる家が繰り返し映される。陰鬱に見えて実は温かい彼らのそばで、ニコは安心して微笑むのだ。彼に帰るべき家と故郷があるせいで、どこか幸せ感と郷愁が漂う映画だった。
舞台は旧ソ連時代のグルジア。緑の多い牧歌的な風景が、さびしげでどこか懐かしい。古びた建物の入り口が地下に向かってついていて、暗い地階に店や部屋がある。人々は互いに手をパチンと合わせて挨拶する。登場人物は、働きながらもしょっちゅう酒を飲んでいて、背広の下にワインを持ち歩き、相手が牧師でも政府高官でも、賄賂にワインが使われたり、教会がまるで廃墟のようで牧師がホームレスのように見えたり。老人たちのカップルがダンスし、おばあさん二人が見事なピアノの連弾をしたり。映っている情景が珍しかった。
ニコラスは苦労して映画を作るが、権力による銃殺場面のある内容が検閲にひっかかって、公開禁止になってしまう。フランスから大使が来て、ニコがその滞在先を訪ねるが、盗聴を恐れて筆談をする。だが、その一部始終は何者かに監視されている。フィルムを持ち出してもばれ、ニコラスは投獄され、暴行を受ける。ニコは実は名門の出で、政府高官の勧めでフランスへ出国。新しい土地で撮影に取り掛かるが、そこでも困難が待ち構えていた。
グルジアでの仕事中、期間の延長にイラついた製作責任者が’プロ’の編集者を呼び、編集者がフィルムを適当に切ってしまう。フランスでも、プロデューサーたちがニコのフィルムを勝手に編集。そして、手を出してくる連中は、国が違ってもみな似たような老人たちだ。フランスにいても、ニコは盗聴を恐れ、家族への手紙を伝書鳩に託す。ここでも彼は監視の対象だった。
だが、何より変わらないのは、ニコラス自身。彼のフィルムの長いこと。グルジアでも何巻もが机に積み上げられていたが、フランスでも同じ。グルジアでの作品は、歴史ものという形が分かったが、フランスで撮影された作品の意図はまるで分からない。
乳母車に乗せられた赤ん坊の列や、磔刑にされるキリストに扮した男たちや、タップダンスをする尼さんたちなど、オーディションにやってくる人たちの群れが笑いを誘う。彼らから、どんな映画ができたのだろうか。一方で、散歩する犬が延々と映る場面。
結局フランスで作った映画は、上映中に管曲のほとんどが途中で帰ってしまうが、それはプロデューサーたちのせいなのか、もともとの内容のせいなのか、観ている方には判断がつかない。はっきりしていることは、ニコが観客を楽しまそうとは全然思っていないことと、そんな自分の方針を絶対に曲げたくないことだ。
そして、この映画自体、かなりこだわりの強い頑固な作り。カメラはほとんど動かずじっと人物たちを見つめ、何でもない情景にこだわって、それがさりげなく自然でドキュメントのように感じられるかと思うと、突然人魚が出てきたり。暴行シーンとか息苦しい状況がリアルな一方、グルジアとフランスのかなりの距離を伝書鳩、というのは空想的だ。
行くところ壁だらけで、いつも不機嫌な主人公だが、彼に関係なくクスっと笑える場面もあった。幼い日々の思い出と、老いた祖父母や母のいる家が繰り返し映される。陰鬱に見えて実は温かい彼らのそばで、ニコは安心して微笑むのだ。彼に帰るべき家と故郷があるせいで、どこか幸せ感と郷愁が漂う映画だった。
2012年03月17日
おじいちゃんの古時計
とれぶりんか子ども劇団による「おじいちゃんの古時計」を観た。
1995年1月17日、6千人を超える死者を出した阪神淡路大地震が起こった。連絡がつかない祖父の安否を心配した耳の聞こえない少年竜夫は、両親を説得して、一人で祖父の住む神戸に向かった。竜夫の話を聞いた車イスの少女明子も一緒。
電車が復旧しているのは、西宮北口までで、そこからは徒歩で行かねばならない。苦労してたどり着いた二人だったが、懐かしい街はがれきになり、祖父は死んだと聞かされる。絶望と疲れで倒れた二人は、くらもとベーカリーの人たちに助けられ、教会の焼け跡にできた避難所で、ボランティアの手伝いをすることになる。
施設の子どもたちが、みんなで陰口をたたいている相手は、偏屈なしげじい。妻を震災で失くし、一人生き残ったが、そのせいで引きこもり、人を見れば怒ってばかり。子どもたちも社会から忘れ去られた弱い存在。
明子が自分の荷物の中に残っていたバームクーヘンを食べていると、子どもたちや親が集まってきてどこでもらえるのかと聞き、誤解だと分かると明子は親になじられる。そんな明子を励ますボランティアのリーダー啓子。彼女の献身的な姿は、周囲のみんなを奮い立たせる。だが、彼女も友人や家族を失くし、心に傷を抱えていた。
くらもとベーカリーの夫妻と彼らを手伝う翔、翔を慕うしゅん。車イスの少女ゆりが、自分を否定してなげやりになっても、みんなが一斉に彼女を励まし、決して希望から目をそらさない。
その一方、ベーカリーの苦しい経営を気遣った翔は、自ら職場に別れを告げる。再び神戸を訪れた竜夫が聞かされたのは、復興から取り残された人々の暮らし。力尽きて亡くなっていく人。そして、それでも前を向こうとする人々の姿だった。
夜空を見上げながら「奪われるものばかりじゃない」という場面や、去って行った翔のことを「みんなで修行に出したんや」という場面とか、セリフの美しさや温かさが心に残った。人々が失くした大切な家族や仕事、生活。そのために抱えた心の傷。その中で生きていこうとする人たちの、強い絆とひたむきさが迫ってきた。
大人の役はスタッフが演じていたけれど、15歳から二十歳の役を小中学生がやっていて、背伸びをした配役だったけど、不自然じゃなくみんなすごく上手だった。特に主役の竜夫役の男の子は、演技もナレーションも、もう全くプロみたい。施設の子どもたちの場面は、やり取りがすごく多いのに、小さい子たちががんばっていた。
背景や大道具を使わず、ナレーションと音響で想像させる演出もよかった。
1995年1月17日、6千人を超える死者を出した阪神淡路大地震が起こった。連絡がつかない祖父の安否を心配した耳の聞こえない少年竜夫は、両親を説得して、一人で祖父の住む神戸に向かった。竜夫の話を聞いた車イスの少女明子も一緒。
電車が復旧しているのは、西宮北口までで、そこからは徒歩で行かねばならない。苦労してたどり着いた二人だったが、懐かしい街はがれきになり、祖父は死んだと聞かされる。絶望と疲れで倒れた二人は、くらもとベーカリーの人たちに助けられ、教会の焼け跡にできた避難所で、ボランティアの手伝いをすることになる。
施設の子どもたちが、みんなで陰口をたたいている相手は、偏屈なしげじい。妻を震災で失くし、一人生き残ったが、そのせいで引きこもり、人を見れば怒ってばかり。子どもたちも社会から忘れ去られた弱い存在。
明子が自分の荷物の中に残っていたバームクーヘンを食べていると、子どもたちや親が集まってきてどこでもらえるのかと聞き、誤解だと分かると明子は親になじられる。そんな明子を励ますボランティアのリーダー啓子。彼女の献身的な姿は、周囲のみんなを奮い立たせる。だが、彼女も友人や家族を失くし、心に傷を抱えていた。
くらもとベーカリーの夫妻と彼らを手伝う翔、翔を慕うしゅん。車イスの少女ゆりが、自分を否定してなげやりになっても、みんなが一斉に彼女を励まし、決して希望から目をそらさない。
その一方、ベーカリーの苦しい経営を気遣った翔は、自ら職場に別れを告げる。再び神戸を訪れた竜夫が聞かされたのは、復興から取り残された人々の暮らし。力尽きて亡くなっていく人。そして、それでも前を向こうとする人々の姿だった。
夜空を見上げながら「奪われるものばかりじゃない」という場面や、去って行った翔のことを「みんなで修行に出したんや」という場面とか、セリフの美しさや温かさが心に残った。人々が失くした大切な家族や仕事、生活。そのために抱えた心の傷。その中で生きていこうとする人たちの、強い絆とひたむきさが迫ってきた。
大人の役はスタッフが演じていたけれど、15歳から二十歳の役を小中学生がやっていて、背伸びをした配役だったけど、不自然じゃなくみんなすごく上手だった。特に主役の竜夫役の男の子は、演技もナレーションも、もう全くプロみたい。施設の子どもたちの場面は、やり取りがすごく多いのに、小さい子たちががんばっていた。
背景や大道具を使わず、ナレーションと音響で想像させる演出もよかった。
