2015年08月14日

ボヴァリー夫人とパン屋

 パリでの出版社勤務の後、父のあとを継ぎノルマンディーの小さな村でパン屋をしているマルタン・ジュペール(ファブリス・ルキーニ)。「ボヴァリー夫人」フリークで、本をぼろぼろになるまで読み込んでいる彼の隣に、英国人夫婦が越してくるが、妻の名は何と、小説の主人公にGを足しただけのジェマ・ボヴァリー(ジェマ・アータートン)で、夫は、フランス語読みでは主人公の夫役のシャルルとなるチャーリー(ジェイソン・フレミング)。マルタンは、奇しくも小説と重なるかのような、ジェマの振る舞いにくぎ付になっていく。

 隣人とはいえ、マルタンはしょっちゅうジェマに出くわす。犬の散歩中の会話はともかく、彼女が美青年のエルヴェ・ド・ブレシニー(ニールス・シュナイダー)に声をかけられる場面を目撃し、彼女がエルヴェの大きな屋敷に入っていくところさえ目撃する。そればかりか、ジェマがもう一人の別の男パトリックとただならぬ仲らしいのも見てしまう。小説と同じ展開が、マルタンの予想と期待どおりに起こっていくのだ。

 ジェマの恋の観察者であるマルタンだが、彼自身もジェマに強く惹かれている。店を訪れ、パンのおいしさに興奮するジェマ。工房で、マルタンの横でパンをこねてみせるジェマの恍惚の表情。マルタンのそばにいる時の彼女からは息の音が聞こえ、若さと性が匂い立っている。だから、ジェマの身を案じて恋を妨害してしまうマルタンの心の中には、多分嫉妬が混じっている。

 ジェマは小説のエマと同じく、夫のそばで確かに退屈そうだ。そしてその相手は、小説の登場人物と同じく、快楽が目当ての薄情な誘惑者。どのみち母親の庇護から逃れられないエルヴェは、そっけないメールを残してパリに戻ったのだから、マルタンの介入がなくても、結局ジェマの恋は相手のせいで終わっただろう。皮肉にも、現実は小説のとおりに進んでいく。

 マルタンは、ジェマの恋を妨害することに邪悪な喜びを感じているが、彼の胸を不安で締め付けているのは、いつか訪れるかもしれない彼女の死だ。たびたびジェマに叫び声を上げさせるネズミ。そのために用意された殺鼠剤。小説のエマはそれを飲んで死んでいるため、マルタンはその薬剤に異様に反応してしまう。だが、ジェマを死に至らせるのは、そのヒ素でも、マルタンの眼の前で刺されて彼女が倒れた蜂のアナフィラキシーでもなく、意外にも、マルタンが彼女に贈ったものだった。

 ジェマはもちろん、小説とは違う自分の人生を生きていて、パトリックとは引っ越してくる以前に終わった仲。パトリックのずるさを見抜いて彼を拒否するし、エルヴェが去ったあとには、夫の誠実さを見直し、自分が本当に愛しているのは誰かに気付く。彼女には自殺願望などみじんもなかった。マルタンはジェマの日記を盗んで読むが、そこにはエマとは違う、ジェマの生き生きした決心や、独自の感情があったはずだ。

 だが、パトリックが引っ越し先に現れるのは、まるで物語に引き寄せられたかのよう。そして、マルタンがジェマに警告した「現実が芸術を模倣する」という奇妙なことに。三角関係の末のように見えた悲劇に、頭がクラクラした。

 この話はマルタンの眼を通して描かれているが、作品のユーモアをすべて担っているのも彼だ。チャーリーが去ったあとに越してきた隣人の名をアンナ・カレーニナだと息子に騙されたマルタン。早速隣人に近づく彼の背後、彼の壮大な妄想のように、ポーレシュカ・ポーレが壮大に鳴り響くラストに、思わず吹き出した。
posted by HIROMI at 11:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記