2008年03月08日

潜水服は蝶の夢を見る

 「潜水服は蝶の夢を見る」。脳梗塞により”閉じ込め症候群”に陥った元「ELEE」の編集長・ジャン・ドミニク・ボービーが、唯一動かせる左目のまばたきで綴ったエッセーの映画化。

 冒頭、やや下のアングルから二人の医師が話す画面が映り、その焦点がぼやけたり合ったりが繰り返される。脳梗塞による昏睡から目覚めた時に主人公が初めに眼にする場面で、言っているはずの言葉に、耳をふさいだ時に聞こえるような、彼の呼吸音がかぶさっている。これ以降、意識が明晰なまま、動かせない体に閉じ込められてしまっている主人公の眼が見ている世界を、観客がともに経験することになる。
 眼球を守るためだからと右目のまぶたが縫われ、視界が奪われていくのに声も上げられない。まるで自分がされているようにリアルだ。次々に左眼のすぐ前に現れる妻や友人の顔。赤ん坊のように体を現れることへの自嘲。観ているテレビを不意に消されても心の中で叫ぶだけだ。

 そんな状況に、言語療法士のアンリエットと理学療法士のマリーが光を差し込んでいく。アンリエットは、頻度順に言うアルファベからまばたきの合図で文字を選ぶ方法で、コミュニケーションを取ることを提案。絶望に心を閉ざしていたジャン・ボーが、自分の内に残る想像力と記憶の力に希望を見出したところから、場面は彼の固定された視点から大きく飛躍する。
 スキーで滑降し、見知らぬ土地を旅し、古い映画の主人公になる空想。それは蝶のように時空をはばたく。一方で、華やかだった仕事の風景、恋人と別れることになったルルドへの旅や、父親との最後の語らい、飛行機のチケットを譲った友人を襲った不運など、現実の過去の思い出も、愛惜と悔恨を込めて語られる。それらの映像が鮮やかで美しい。

 登場する女性たちはみな魅力的で、ジャンは発声のために舌の使い方を指導するマリーに悶々とし、妻のスカートが風に吹かれ足が見える場面も、彼女の朗読を聴くどころじゃないようだ。こんな反応はとても滑稽だが、彼に残る命の輝きでもあり、多くの恋愛を楽しんでいた事故以前からの彼の生の連続でもある。こうした場面や、主人公の周囲や自分への数々の皮肉な観察のために、深刻なはずの内容に暗さや重苦しさは感じられない。

 ちなみに原作では、眼の前の現実の女性たちについては多くを語らず、その記述にも性的な視線は感じられない。ミニスカートやぽってりした腕など即物的な視線を向けられるのは思い出や想像の中の女性たちだが、それは失った仕事や生活への懐かしさであふれている。主人公のいる病院を名づけたナポレオン3世の妻・ウジェニーの幻想も、映画では彼女とキスを交わしているが、原作ではドレスの裾にうずめた彼の頭を彼女がなで、慰めの言葉をかけるという母性的なもので、聖母マリアのようなイメージを感じた。

 また、恋人からの電話を妻が仲立ちする緊張の場面も原作にはなく、画面に3人現れる子どもも、実際は2人。チケットを譲った友人が中東で人質になったエピソードも、作者が譲ったのは香港行きのもので人質事件とは関係がなく、4年の苦難の末に戻った友人を前に、なぜ彼に電話をしなかったのかと恥じたりしない。映画の主人公の方が実際よりさらに危うい人間関係を生きているようだが、現実味があって、それらを前に書いたような図らないユーモアが救っている。
 
 アルファベットを一つひとつ拾っての会話は、場面を見てても気の遠くなるような作業。本の執筆に使われた時間と努力は膨大だったはずで、手助けする編集者の忍耐力もすごいが、紙もペンもちろんパソコンも使わずに文章を作りそれを暗記し、正確に伝えた主人公の知力も尋常でないと思う。
posted by HIROMI at 20:38| Comment(12) | TrackBack(20) | 日記
この記事へのコメント
こんにちは。
素晴らしい作品でした。
なるほど、原作では目の前の女性をエロ視線で見つめたことなんて書かれていないのですかー。
Posted by かえる at 2008年03月09日 08:04
かえるさん
コメントありがとうございます。
映像も脚本も素晴らしかったですね。早くも私の今年のNO.1に決定です。原作も、現在と過ぎ去った人生への愛と、ユーモアと皮肉に満ちて素晴らしい描写です。是非!
Posted by HIROMI at 2008年03月09日 11:10
ご訪問ありがとうございます。
原作とはかなり違うのですね。
子どもの数はともかく現実のジャン=ドーの方が私は好きです。
Posted by sannkeneko at 2008年03月09日 17:55
sannkenekoさん
コメントありがとうございます。
原作の主人公も、エピソードの違いは別にしても、家族と離れ恋人と暮らしていました。恋愛と個人主義の国フランスですからねえ。
Posted by HIROMI at 2008年03月09日 20:44
HITOMIさん、こんばんは!

最初は片目を通じてしかコミュニケートできないジャンの閉塞感を彼の視点から、そして彼が「自分をあわれまない」と思った時から外界の視点に切り替わるというカメラの使い方がなんとも上手でした。
見いている自分も彼のような不自由さを感じ、そして開放感を感じられました。
Posted by はらやん at 2008年03月16日 20:08
はらやんさん
コメントありがとうございます。
主人公の心の状態と映像がぴったり合っていましたね。とてもリアルなのに、自分に残された力に希望を見出したところから大きく変化した映像には詩情があって、どの場面もすごいと思いました。
Posted by HIROMI at 2008年03月16日 22:17
TBありがとうございました。

本当にいい映画でした。
映像もとてもきれいだったし、構成もよかったですね。

私は原作を読んでいないので、HIROMI さんが詳しく書いてくださって、ありがたいです。
これを読んで、原作にない部分も映画には必要だったと思いました。
Posted by マダムよう at 2008年04月10日 10:25
マダムようさん
私の方こそコメントありがとうございます。
本当にいい映画でしたよね。今でも美しい映像が心にじーんと残っています。
映画が原作に比べておもしろくない場合もあると思いますが、これはどちらもそれぞれにとてもよかったです。
Posted by HIROMI at 2008年04月10日 19:07
HIROMIさん、こんばんは!
斬新なアメラアングルは主人公と同じ体験をしてるようでした。
女性たちの登場で、暗闇にいた彼の人生はまた輝き出したよね。
映画用に改編しているんですね。
ますます原作を読みたくなりました。




Posted by アイマック at 2008年07月27日 23:45
アイマックさん
コメントありがとうございます。
主人公の眼と一体になったカメラアングルが斬新で、彼の想像や記憶の場面の映像も、とても美しかったですよね。原作も、彼の状態からは考えられない驚くほどの筆致です。是非どうぞ!
Posted by HIROMI at 2008年07月28日 06:15
TBありがとう。
撮影で使われたベルク海事病院も、海が見えるベランダなどなかなか素敵なロケーションでした。
Posted by kimion20002000 at 2008年08月05日 02:20
kimion20002000さん
お越しくださってありがとうございます。
海岸の風景も、色とりどりのパラソルや空がきれいだったし、病院からの眺望も独特の空気感ありましたね。現実であれ想像であれ、どの場面も美しかったです。
Posted by HIROMI at 2008年08月05日 18:49
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