2015年11月15日

顔のないヒトラーたち

 1958年のドイツ、フランクフルト。地方検察の若い検事ヨハン・ランドマンは、ジャーナリストのトーマス・グニルカから、元親衛隊だったシュルツが今も教師として働いていることを知らされた。同僚の検事たちは皆無関心。検察官の定例会議で報告すると、文部省に確認すると約束され、その後シュツルが免職になったと知らされるものの、実際にはシュツツは何事もなく学校に居続けていた。検事総長のバウワーに呼び出されたランドマンは、殺人の確固たる証拠なしには、戦争犯罪者を裁くことはできないと教えられる。

 ナチの犯罪と誠実に向き合ってきたドイツ。この国の戦争犯罪訴追が、戦後すぐではなかったことや、1958年当時には、国民の多くがアウシュビッツを知らなかったことは、衝撃だった。戦後のドイツは、アウデナー大統領のもと、経済復興にやっきで、重い過去にはふたをして、忘れ去ろうとしていたのだ。当時の政府機関には元ナチ党員が大勢いたままだった。

 ヨハンが目にした証拠の発端は、アウシュビッツからの生還者シモンが収容所から持ち帰った、実名入りの親衛隊員の名簿。バウワーから調査の指揮を任されたヨハンは、ナチの残した膨大な兵士の記録を辿る一方、イスラエルの団体の協力を得て、ようやく最初の被害の証言者に辿りつく。
 だが、アウシュビッツのことを何も知らなかったヨハンは、非人間的な状況下での大量殺人のために、殺された者の名前や、目撃した日時などの質問が意味をなさないことに、初めは気付かず、証言者に無知を驚かれる。そして、悲惨な体験にただ耳を傾けることにより、アウシュビッツでのおぞましい犯罪の数々を知ることになるのだった。

 点呼の時に顔を見たというだけで、相手の眼をつぶした者。相手が死ぬまでブーツで殴り続けた者。リンゴをもっていた少年の足をつかんで、壁に頭から打ちつけた者。それをやった男は、その後りんごを平然と食べた。帽子を取って投げ、それを取りに行った背中を撃った者。それはよく行われたことで、「逃亡による銃撃」として処理されたという。それらは、兵士として上官の命令に従った、という弁解が通じない、恣意的なものだ。そんな理不尽で卑劣で凶暴な暴力が、収容所での日常だった。

 もちろん、収容所内で権力をもっていた者たちによる犯罪もある。アウシュビッツでは、医師による生体実験が繰り返し行われており、双子の娘を医師メンゲルに惨殺されたシモンの証言は、悪魔の所業としか思えない、身の毛もよだつ恐ろしいものだ。

 米軍のドキュメンタリーセンターには、60万人ものファイルがあり、そのうちアウシュビッツで働いていた8000人全員が容疑者と考えられた。ヨハンは、山のような文書と格闘し、ドイツ中の電話帳をたどって、元親衛隊員らの住所を突き止めていく一方、アウシュビッツの悪の象徴であるメンゲルの行方を追って行く。
 警察や他の関係機関が、及び腰ですばやい行動を取らず、上司や同僚の反発もあるなか、ヨハンは、検事総長の導きや、グルニカの協力により、果敢に粘り強く真実に迫っていく。イスラエルの諜報機関モサドもからみ、サスペンスのような緊迫感だった。

 そして、ついに1963年、ホロコーストに関わった者をドイツ人自身で裁く、フランクフルト・アウシュビッツ裁判が始まり、アウシュビッツで何が行われていたのかが、広く知られることとなった。

 ヨハンたちの努力に感銘を受けるとともに、ドイツと日本の大きな違いを、改めて考えさせられた。日本が海外で行った犯罪は、多くが闇の中で、731部隊は何も罪を問われていない。日本人自身に向けられた犯罪も、小林多喜二を拷問死させた特高たちは、それが誰だったかさえ知られていない。暗澹とした気持ちが残る。 
posted by HIROMI at 09:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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