2017年07月10日

セールスマン

 アパートが倒壊の危機に見舞われ、新しい住居を探さなければならなくなった若い夫婦のエマッドとラナ。演劇仲間のババクが紹介してくれた物件に引っ越した二人だったが、終演後に検閲官に合うエマッドを残して先に帰ったラナは、呼び鈴を夫と間違えて施錠を降ろし、侵入者に襲われてしまう。

 倒壊騒ぎの近くでは、ショベルカーがで地下深くを掘っていて、二人が住むテヘランの乱開発が伺える。建物の壁ばかりが見える風景はどこか殺伐としている。彼らの新居も、壁がはがれ、一部では雨漏りも。そして、前の住人の大量の私物が残されているのだった。

 けがを負ったラナは、最初はショックで無表情。そして、次には恐怖や不安が押し寄せる。事件のせいで夜は夫を拒否する一方、昼には、仕事に行こうとする彼にそばにいて欲しいと頼む。警察に行こうというエマッドに対し、ラナはそれを拒否。ただ忘れたいと言いつつ、感情を乱す彼女に対し、エマッドは困惑をつのらせていく。

 実は前の住人が娼婦だった、と知らされた二人。劇団仲間の小さな子供を預かって、ラナとエマッドが久しぶりに囲んだ楽しい食卓が、一瞬で暗転するシーンが怖かった。料理のためにラナが使った金が、犯人が残したものだと気付いたエマッドは、3人の食事を中断させる。妻の身に実際何が起こったのか、暗い確信と復讐心が立ち上がり、自ら犯人捜しをしていたエマッドの行動が、ここから加速していく。

 だが、状況には不可解な点が多いと思った。エマッドは、犯人が残した車のキーから、車を見つけ出し、ついには犯人を捜し出すのだが、金を残す余裕があった犯人が、なぜキーを部屋に忘れて帰ったのだろう。足にけがを負ったまま。それに、ついに現れた犯人は、レイプと結びつけるには、あまりに老いぼれているではないか。

 登場人物たちがつく少しずつのウソが、彼らの間に溝を作っていく。ラナは、犯人の顔を見ていないといいながら、上演中に男の眼を思い出して取り乱した。前の住人のことを二人に告げなかったババク。留守電には、彼が娼婦に話す親しげなメッセージが残っていた。
 アーサー・ミラーの「セールスマンの死」の舞台が、何度もはさみ込まれるが、現実には何とか抑えられているラナの激しい恐怖や、エマッドのババクに対する軽蔑や怒りが、演じているはずの舞台上で吹き出すのが印象的だった。

 最も大きくウソをつくのは犯人だ。だがなぜ彼は、自分がキーを忘れた場所に、犯行に使った車で出かけてきたのだろう。ガードの固い何食わぬ顔の老人は、エマッドの激しい追及の前に、次第に抵抗を失くしていく。そして、絶望にうなだれる老人を前に、許したいと願うラナと、復讐に燃えるエマッドの思いが対立するのだ。ラナには、家族の前で、すべてを失ってしまうだろう老人は、あまりに無力で哀れだったのだろう。 

 映画の終わりまで、前の住人だった娼婦は、まだ部屋が見つかっていない。それなら、なぜ彼女は部屋を出ていったのだろうか。最後まで姿を見せず、詳しいことは描かれない彼女。ラナもエマッドも、誰も気にかけない彼女は、小さな子供をつれて、どこにいるのだろう。謎の多い、不条理劇を観たような気分になった。
posted by HIROMI at 20:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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