2011年09月13日

あしたが消えるーどうして原発?ー

 福島第一原発を追った1989年の作品。1989年は、3年前にチェルノブイリの事故があり、核汚染への関心が高くなっていた時。独立プロ・近代映画協会で新藤兼人の門下生だったプロデューサーたちと若い監督が、立ち上がったものの、当時でも反原発を名乗るのは難しく、スタッフそれぞれがテレビの仕事もしていたことから、会社名を名乗るのをやめて、「原発を考える映画人の会」の名称で作られたそうだ。取材にも撮影にも、大きな壁があった一方、現地でのさまざまな出会いに助けられたという。

 映画の軸は、原発の設計・保全に携わっていた52歳の父を、骨がんで失くした仙台の主婦。「原発は安全だ」と言っていた父だが、彼女は父の死や、原発の安全性に疑問を持つ一方、父のしてきたことを否定する辛さに心が揺れる。

 原発は火力発電所と同じく、お湯を沸騰させてタービンを回して電力を生むが、原料がウランで、稼動させることで必ず”死の灰”ができ、その処理技術がまだ確立されていないこと、などが、分かりやすい図とともに映され、すっきりとした啓蒙の内容にもなっている。
 当時の原発は38基。計画中だった14基は、現在すっかり稼動中で、列島の海岸を埋めていることに愕然とする。その一方、当時未熟だった技術は今もまだ未熟なまま。

 元原子炉設計技師の証言が衝撃的だった。1988年、福島第一の4号炉で欠陥が指摘されたが、電力会社は、15年も前から知りながら隠し続けていたという。1989年には、第二原発3号炉で、再循環ポンプの重さ100キロもの部品が炉心に落ちたが、会社は事故を予測しながらも、運転を続いていた。「溶接が悪かったのではなく、不具合に目をつもって運転するとうシステムが悪い」。
 機械はいつかは壊れるものだし、中性子の衝撃で、設計者の予想の10倍の速さで老朽化している部分もあるという。腐食して穴のあいた金属や、裂けたパイプにぞっとした。だが、それでも運転許可は下され続けるのだ。

 そして、常に被爆の危険にさらされ続ける労働者たち。広島・長崎の被爆者を追跡してきた医師は、彼らと原発労働者には、共通の症状が見られる、と指摘する。
 鉄板が落下して、足の小指を切断しても、下請けであるせいで補償を受けられなかった人。規定の被爆量を超えると働けなくなるのを恐れ、アラームを持たずに仕事をした、という人。落下した物を拾うため、パンツ一枚で作業をせざるを得なかった、という人。電力会社は、3ヶ月かかる工期を、2ヶ月でやれ、と下請けに圧力をかける・・。
 被爆する労働者の犠牲のうえにしか稼動できない。それだけでも、原発は非常に罪深いと思う。

 チェルノブイリやスリーマイル島の映像もたくさん差し込まれていたが、爆発後のチェルノブイリのめちゃくちゃな映像は、福島と重なった。だが、炉心も吹っ飛んで泥地のようなぐじゃぐじゃさは衝撃。そこで、驚くような軽装で泥やがれきを片付ける人々。この映画を撮った監督は、数年後がんで亡くなったそうだ。
 スリーマイル島の事故では、周囲に漏れた放射能のため、頭が2つある牛が生まれたり、奇形のトマトやタンポポが見つかったりしたという。だが、この事故では、炉心溶融があったものの、早い段階で何とか冷却に成功した。それでもこんな深刻なことになったのなら、3基もメルトダウンし、いまだに収束が見えない福島の将来は、どんなになってしまうのだろう、とショックだった。

 最後は、もし、福島でチェルノブイリと同じことが起こったら、という、チェルノブイリの避難区域に、日本列島がすっぽり入る衝撃の映像。22年前の危惧が本当になってしまった今。30キロ圏とかいってるけど、本当は、日本全体が放射能を恐れながらしか生きられない事態になっているのだろう。
 22年前と変わらない現実。22年前の映画から学ぶことは多かった。
posted by HIROMI at 22:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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