2015年09月06日

あの日のように抱きしめて

 1945年、アウシュビッツ強制収容所から、ユダヤ機関に勤める親友のルネ(ニーナ・クンツェルドルフ)に付き添われ、ベルリンに戻ってきた、元声楽家のネリー(ニーナ・ホス)。奇跡的に生還した彼女だったが、顔に銃による大けがを負っていて、手術によっても、元の顔に戻ることはできなかった。ピアニストだった夫のジョニー(ロナルト・ツェアホルト)と再会することが何よりの望みであるネリーは、パレスチナへの移住を誘うルネの言葉に関心を示さず、夜の街を捜し歩いて、ついに、酒場で雑用係をしている夫を発見する。だが、ジョニーはネリーを妻だとは気付かないどころか、「死んだ妻に似ているから、妻を演じてくれたら財産を山分けする」と持ちかける。ネリーは、混乱しながらも夫の提案を受け入れた。

 ルネはジョニーについて、ネリーの逮捕の2日前に釈放され、その後も音楽家として普通に過ごしていた、と警告する。つまり、妻をナチに売った裏切り者だと。彼が役所から書類を盗む場面からも、ジョニーがルネのいうとおりクロであることは想像できる。だが、夫の愛情を堅く信じるネリーは、それが受け入れられない。一方のジョニーは、眼の前の女がネリーだとは分からない。二人は初め、互いの姿がまったく見えないのだ。

 ネリーが求めるのは、夫との以前の幸せな日々。彼女がジョニーの言うとおりにするのは、彼のそばにいたいためと、何より彼に、妻として発見されたいからだろう。収容所で心身をずたずたにされたうえに、顔を失くし、はじめ幽霊のようにおぼつかなかったネリーは、ジョニーの注文どおりに髪を染め、化粧をして、元のネリーをなぞっていくうち、皮肉にも元の自分を取り戻していく。それは、初めて夫と出会い、関係をやり直しているかのような、新鮮な喜びをもたらして、よけいにジョニーへの眼をくらませる。だが、生還の日のための工作でジョニーの指示通りに動くうちに、彼への疑惑が沸き起こってくるのだった。

 ジョニーはおそらく、かつてネリーを本当に愛していただろう。だから、彼女を守ろうとハウスボートに隠した。だが、ナチに尋問された恐怖で、自分の身の安全の方を選んでしまったのだ。卑怯だが、普通の小心な男なのだと思う。そして、自分の行為への後ろめたさから、それを責めるべき妻を、死んでしまったと思い込みたい。その上、落ちぶれた身の上から金が必要な彼は、彼女の財産に目をつけたなどと、本物の妻には知られてはならない。だから、目の前にいるネリーによく似た女は、どこまでもニセのネリーでなくてはならないのだ。
 だから、ネリーにそっくりに着飾った女を見て動揺したジョニーは、似ていると思うがゆえに、激しくそれを否定する。ジョニーの表情からも行動からも、彼の妻への思いは見えにくいが、彼はおそらく、自分に都合のいいように、妻への愛も罪の意識も、今の良心さえも抑圧しているのだ。

 収容所帰りの人々はみんな火傷や銃創でボロボロで、そのため誰も彼らを見ない、というジョニーの言葉がショッキングだった。そのため、ジョニーはネリーに、なりすましての収容所から生還の日に、赤いドレスを着るように言う。そして、彼の言ったとおり、出迎えた人々は、彼女の服装を不自然だとは思わず、収容所のことも訊ねない。かつて不正をした社会が、その犠牲者を受け入れる時の、奇妙なよそよそしさ。

 そして、ネリーが自分自身になりすまして彼の前に現れたまさにその日、もう彼の仕打ちに気付いていた彼女は、彼に自分の正体を人知れず気付かせる。彼への愛をよりどころに、強制収容所を生き抜いたネリー。愛は復讐に変わるのか。ミステリアスなラストが悲しかった。
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2015年09月01日

ふたつの顔を持つ少年

 ナチから逃れ、ゲットーを脱出した8歳のユダヤ人少年スルリックは、森のなかで同じ境遇の子供たちと暮らすが、ドイツ兵に追われて一人になる。冬になり、雪原をさまよった末、パルチザンの家族を待つポーランド人女性に助けられた彼は、ユレク・スタニャンという名のポーランド人孤児としての偽りの身の上話と、キリスト教徒としてのふるまいを教えられる。だが、そこにもゲシュタポが近づき、夫人のもとを離れたユレクは、次の居場所を求めて旅をするのだった。

 冒頭、上着を盗んで捕まりそうになりながら、吹きすさぶ雪のなかを歩くだけでも、すごいサバイバル。ゲットーを出る場面では、もぐり込んだ荷馬車に、ナチが銃剣を何度も突き刺す。森での生活は、一緒に食べ物を盗んで仲間が捕まっても、見捨てて走り続けなければならない。一瞬の判断で生き延びるユレク。そんななか、夫人や、少年の存在を黙っている荷馬車の男など、心ある大人が彼を助けてくれた。あの時代に、ユダヤ人を助けることにどれほどの勇気がいったか、はかり知れない。悪に覆われたなかでも、良心の人々はいたのだ。
 農家に気に入られてしばらく過ごした時、遊んでいる時に近所の子供に割礼をはやされて、そこにいられなくなる。ポーランド人だと思って受け入れた家族だが、彼がユダヤ人だと分かったあとも、追い出すのではなく、逃がしたのだ。

 だが、親切な顔をして、金のためにユダヤ人を差し出す者も。ゲシュタポに引き渡されて、絶体絶命の場面、ユレクは、勇気と知恵で、一瞬の運をつかんで逃走。銃と犬による森での追撃も逃れて生き延びる。その後も試練は続き、大きな農場で働き始めるも、脱穀機に腕をはさまれる事故。ユダヤ人だからと手術を拒否されるが、翌日別の医者が執刀し、命を取り留める。たが、最初の医者が放置したことで、右手を失った。
 そして、手術を拒否した医者の密告でナチに追われるも、またしても、同室の老人や、農場の先輩や、見知らぬ船頭たちの助けにより、逃げ切るのだった。
 病院から連れ出してくれた男は、見つかれば自分も危ないのに、命がけで良心に従った行動をとる。

 たった一人の小さな少年も逃がすまいと追ってくる、ナチの執拗さは不思議なほどだ。もし、彼の体が大人のように大きかったら、荷台の中にもぐり込むのも、水辺に隠れるのも難しかっただろう。少年だったから、うその身の上話も短くてすむし、警戒もされにくい。それでも、固く扉を閉ざす人々。賢いユレクは、用心深く大人たちを引きつけて生き延びる。
 そして、少年だったからこそ、子供たちと仲良くなり、家族の一員として本当に愛されもしたのだろう。そうした経験が、過酷な経験のなかに、温かな違う記憶をすべり込ませ、心を休ませて生きる活力を注いだと思う。
 
 だが、追われるユレクが出会う人々は、必ず間もなく別れる相手。そして、その後はもう二度と会うことのない人々だ。助けてくれて、絆をつないだ人たちとの別れの切なさ。心もとなさ。それでも決して絶望せずに、次々と苦難を乗り越えて生き抜き、生き延びていく少年の姿に、深く胸を打たれた。 
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2015年08月29日

この国の空

 1945年、3月の大空襲のあとの東京杉並区。父が戦争に行き、母と暮らす19歳の里子(二階堂ふみ)。隣に住む銀行支店長の市毛(長谷川博己)は、妻子を田舎に疎開させて一人暮らし。おすそ分けを持って行ったり、配給の物資を届けたりの近所付き合いのなか、ひそかに市毛を慕う里子。二人の男女は次第にキョリを縮めていくのだった。

 親子二人でかつかつの暮らしのところに、横浜で焼け出された母の姉が転がり込むと、姉妹間の最初の驚きやいたわりが、たちまち敵意に変わっていがみ合う。配給の乏しい食糧。眠る間もなく響く空襲警報。不安で心もとない彼らの周りには、若い男たちの姿はない。そして、疎開のせいで、子供たちの声も、街からは消えている。

 親戚から送ってきたもちを市毛の家で焼いた里子は、突然泣き出して、市毛を動揺させる。市毛に言われて夜に家を訪ねると、市毛は妻子に送るための新聞の切り抜きを彼女に見せる。留守を頼まれて家に入ると、柱には子供の背の切り込み。近づいてもそこに見えるのは、他人のものである男の顔ばかり。だが、里子はひるまず、若さ一杯にたぎらせた恋のあこがれや、性への恐れを、一心に市毛に傾ける。

 兵隊検査が丙種合格だったために、徴兵を逃れた市毛。新聞記者の友人から終戦が近いと知らされるものの、赤紙が突然来るのを恐れている。克明でみじめは自爆のイメージ。そんな彼は、死とは対極の里子の若さに強く惹かれ、ついにそれを口にする。

 一旦スイッチの入った情動が、確実に前に進んでいくさまが、切なく暗い。後ずさりする里子を木の幹に追い詰める市毛。その夜、市毛の家に来た里子を、市毛は躊躇なく抱き寄せた。大きく歳の離れた道ならない関係が、息を飲むように切羽詰まったものに思われるのは、未来の見えない戦時下だからだろう。
 初めは市毛を警戒するように言っていた母が、終戦が確実なことを知らせに来た市毛のそばで彼の世話を焼く里子を見、雨のなか彼を送っていくように言う。大人の女としての娘の行き場のない思いを、見守るすべしかないのだろうか。すべて、戦争の真空状態のせいだ。

 始まったばかりの二人の恋。だが、戦争が終わって市毛の妻子が帰ってきたら、状況は変わるはず。男のずるさと、女の怖さがチラッと見えたラスト。里子は、これから自分の戦争が始まるのだという。茨木のり子の詩「私が一番きれいだった時」が、里子の声で朗読されても、詩の健全さとは裏腹に、抑圧された日常のねっとりした感じが、いつまでも残った。
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2015年08月16日

チャップリンからの贈り物

 刑務所から出てきたエディ・リカール(ブノワ・ポールヴールド)を迎えに来たオスマン・ブリシャ(ロシュディ・ゼム)は、エディを自分の家の後ろに置いたトレーラーハウスに住まわせる。いわくありげな男の友情は、ほんわかしてるけどノワールの香り。オスマンの家といえば、おんぼろで冷蔵庫も壊れてる。貧しいオスマンは、獣医になりたい娘の夢をかなえてやるどころか、入院中の妻の治療費もままならない状態だった。
 クリスマスの夜、エディはどこからか盗んできたクリスマスツリーとテレビをオスマンにプレゼント。折しも、チャップリン死去のニュースが流れ、それを見ていたエディは、チャップリンの遺体を盗んで大金を得ようと思いつく。

 墓地に忍び込んで棺を掘り出し、別の穴を掘って苦労して埋める。何だか間の抜けた感じだけど、セリフのない長いシーンは、ノワールの香り。首尾は完璧だと思ってるエディは、チャップリン夫人に電話して身代金を要求するも、相手は英語しか話さない。「フランス語で話せ!」とか「こっちはスイスの窃盗団だぞ」とか、身元がバレそうなセリフが笑える。
 困った二人は、警察に電話するが、本当に犯人かを疑われ、証拠に棺の写真を要求される。パニッくったエディは、要求額をいきなり半分に下げてオスマンともめる。そのドタバタが何ともオカシイ。それでも警察は二人に向かって動き始め、金の受け渡しまで事態が進むが、結局不発。
 初めから乗り気でなかったオスマンは、捕まりそうになったショックでエディを追い出すが、治療費支払に追い詰められ、結局エディに頼み込んで犯罪の続きを演じることに。切羽詰まったオスマンが、要求額をきっちり治療費まで下げて必死で脅すのが、可笑しくも切ない。

 世界のチャップリンの棺を盗むというのは、大それているけど、発想自体がユーモラス。エディは、読書好きで、オスマンの娘サミラ(セリ・グマッシュ)を可愛がる。何やらいかがわしいものの、どこかさみしげで憎めない人物だ。妻と娘を心から愛しながら、金に困る実直なオスマンの窮状は胸が痛む。エディは、「チャップリンは放浪者や貧乏人の友たち。彼に金を借りよう」とオスマンを説得したが、二人とも貧しい移民で、実際チャップリンの映画に出てくるような底辺の人々だ。

 特に印象に残っているのは、オスマンに追い出されたエディが、サーカスの女団長ローザ(キアラ・マストロヤンニ)に見込まれて道化を演じる場面。スーツを着た二人の男が、スローモーションで殺し合う舞台は、可笑しくもペーソスに満ちている。

 この話は実話だそうだ。でも、逮捕された後の二人の運命は脚色されているという。国外退去や5年の懲役が求刑された二人だが、チャップリン家が告訴しなかったこともあり、幸運にも放免。エディはサーカスに居場所を見つけ、ローザの愛も得るし、オスマンには、思わぬプレゼントが届く。チャップリンの映画のような、温かな結末がうれしかった。
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2015年08月14日

ボヴァリー夫人とパン屋

 パリでの出版社勤務の後、父のあとを継ぎノルマンディーの小さな村でパン屋をしているマルタン・ジュペール(ファブリス・ルキーニ)。「ボヴァリー夫人」フリークで、本をぼろぼろになるまで読み込んでいる彼の隣に、英国人夫婦が越してくるが、妻の名は何と、小説の主人公にGを足しただけのジェマ・ボヴァリー(ジェマ・アータートン)で、夫は、フランス語読みでは主人公の夫役のシャルルとなるチャーリー(ジェイソン・フレミング)。マルタンは、奇しくも小説と重なるかのような、ジェマの振る舞いにくぎ付になっていく。

 隣人とはいえ、マルタンはしょっちゅうジェマに出くわす。犬の散歩中の会話はともかく、彼女が美青年のエルヴェ・ド・ブレシニー(ニールス・シュナイダー)に声をかけられる場面を目撃し、彼女がエルヴェの大きな屋敷に入っていくところさえ目撃する。そればかりか、ジェマがもう一人の別の男パトリックとただならぬ仲らしいのも見てしまう。小説と同じ展開が、マルタンの予想と期待どおりに起こっていくのだ。

 ジェマの恋の観察者であるマルタンだが、彼自身もジェマに強く惹かれている。店を訪れ、パンのおいしさに興奮するジェマ。工房で、マルタンの横でパンをこねてみせるジェマの恍惚の表情。マルタンのそばにいる時の彼女からは息の音が聞こえ、若さと性が匂い立っている。だから、ジェマの身を案じて恋を妨害してしまうマルタンの心の中には、多分嫉妬が混じっている。

 ジェマは小説のエマと同じく、夫のそばで確かに退屈そうだ。そしてその相手は、小説の登場人物と同じく、快楽が目当ての薄情な誘惑者。どのみち母親の庇護から逃れられないエルヴェは、そっけないメールを残してパリに戻ったのだから、マルタンの介入がなくても、結局ジェマの恋は相手のせいで終わっただろう。皮肉にも、現実は小説のとおりに進んでいく。

 マルタンは、ジェマの恋を妨害することに邪悪な喜びを感じているが、彼の胸を不安で締め付けているのは、いつか訪れるかもしれない彼女の死だ。たびたびジェマに叫び声を上げさせるネズミ。そのために用意された殺鼠剤。小説のエマはそれを飲んで死んでいるため、マルタンはその薬剤に異様に反応してしまう。だが、ジェマを死に至らせるのは、そのヒ素でも、マルタンの眼の前で刺されて彼女が倒れた蜂のアナフィラキシーでもなく、意外にも、マルタンが彼女に贈ったものだった。

 ジェマはもちろん、小説とは違う自分の人生を生きていて、パトリックとは引っ越してくる以前に終わった仲。パトリックのずるさを見抜いて彼を拒否するし、エルヴェが去ったあとには、夫の誠実さを見直し、自分が本当に愛しているのは誰かに気付く。彼女には自殺願望などみじんもなかった。マルタンはジェマの日記を盗んで読むが、そこにはエマとは違う、ジェマの生き生きした決心や、独自の感情があったはずだ。

 だが、パトリックが引っ越し先に現れるのは、まるで物語に引き寄せられたかのよう。そして、マルタンがジェマに警告した「現実が芸術を模倣する」という奇妙なことに。三角関係の末のように見えた悲劇に、頭がクラクラした。

 この話はマルタンの眼を通して描かれているが、作品のユーモアをすべて担っているのも彼だ。チャーリーが去ったあとに越してきた隣人の名をアンナ・カレーニナだと息子に騙されたマルタン。早速隣人に近づく彼の背後、彼の壮大な妄想のように、ポーレシュカ・ポーレが壮大に鳴り響くラストに、思わず吹き出した。
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2015年07月31日

犬どろぼう完全計画

 ピザ屋だった父が失踪し、父の車の中で母と弟と暮らす小学生のジソ(イ・レ)。ある日、不動産屋で見た素敵な家を500万ウォンだと勘違いした彼女は、解決済みの「犬を見つけてくれたら500万ウォンを差し上げます」のポスターを見、犬を盗んで飼い主に返して500万ウォンをせしめようと思いつく。

 お金もないのに有名私学に通い続けるジソは、級友を招いて開くはずの誕生日パーティーが近づいてきて焦っている。服や靴を売ってしまった母(カン・ヘジョン)は、いつも同じサンダル履き。元カレのスヨン(イ・チョニ)を頼って、何とか高級レストランに就職すると、職場で子供に残り物やアイスを食べさせたり、子供の体を洗ったり。おっちょこちょいな母だけど、生きるためには必死。
 そこのオーナー(キム・ヘジャ)は、無名の画家の絵を途方もない金額で買う一方、人を遠ざけ、テリア犬のウォーリーを溺愛。ジソは、そのいぜいたく三昧の犬に目をつける。

 ジソの境遇を知っても離れない級友のチェラン(イ・ジウォン)。巻き巻き髪にリボンのお金持ちの娘だけど、親たちをクールに観察してる。一見アカンタレに見えるけど、実は頭のいい弟のジソク(ホン・ウンテク)。ジソは3人で力を合わせ、ウォーリー誘拐を実行する。その芸の細かいこと。執念深いこと。山あり谷ありで、思わず成功を祈ってしまう。
 一方、オーナーは遺言に全財産をウォーリーに指定。彼女の甥であり、本当は唯一の相続人のソヨンは遺言の内容に驚く。時にレストランの一帯は大規模開発が予定され、レストランを売りたいソヨンは、ウォーリーを亡き者にしたいと思う。こうして、ジソたちと大人たちとのバトルが展開。

 帰って来ない父を待ちわびるジソ。口論のあとに息子が出て行き、その後二度と息子に会えなかったオーナー。この映画は、家族を思いながらも再会がかなわない人たちの物語だ。ジソたちを助けてくれる不思議な放浪者デポー(チェ・ミンス)も、娘を思いながらも会いには行けない。そして、父の失踪の原因だとジソが思い込んでいる母も、本当は父を待っているのだ。

 ジソは、父がいなくなったのは母のせいだと思い、何度も母とぶつかってしまう。長引くみじめな車中生活。だが、親戚を頼るという現実的な選択を取らない理由は、実は母が父の「すぐ帰る」という言葉を信じているからだと知って泣く。マイペースでひょうひょうとしてるジソクが、いなくなった母を探して声を上げて泣く場面は、思わず涙が流れた。

 ウォーリーが戻ってきて、愛する者が自分のもとを去ることに対する、諦めの気持ちが変化するオーナー。その彼女の計らいで、ジソたちに思わぬプレゼントが届く。絆を深めたたくましい家族の姿に、幸せな気持ちが膨らんだ。
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2015年07月18日

ラブ&ピース

 ロックミュージシャンを目指すも挫折し、楽器の部品会社で働く鈴木良一(長谷川博己)。4畳半のアパートでテレビをつければ、東京五輪を論じているはずのコメンテーターたちが全員、良一のことをあざけり始める。通勤電車の中でも、乗客たちが全員、バカにした視線で取り囲む。あり得ない設定は彼の妄想なのでは?と思うも、会社で思いっきりバカにされる耐えがたさは現実。
 デパートの屋上で買った緑カメにピカドンと名付けた良一は、ロックスターになる夢を語り聞かせ、手作りの人生ゲームの上を、満員の日本スタジアムでライブするゴールまでを走らせる。

 愛情を一杯注ぎ、ピカドンをいつもポケットに入れていた良一だったが、会社ではやされ追い詰められて、何とピカドンをトイレに流してしまう。そして、罪悪感と寂しさに狂いそうになるのだった。

 だが、ピカドンは死なずに地下道をながれ、捨てられた人形やロボットやぬいぐるみや、ペットたちと暮らす老人(西田敏行)の元に流れ着く。おもちゃやペットが口をきくなんて、孤独な浮浪者の妄想なのでは?と思うも、人形たちを生き返らせる老人の力は現実。そして、老人の魔法と、良一の夢を背負ったピカドンのおかげで、良一はスター街道を走っていくことになる。

 自分は氷山で、今見えているのは本当の自分の一部にしかすぎない、と良一は言うが、プロデューサーの眼に留まったのは、たまたま看板の文字をつなげて作った歌詞だし、反骨の反戦歌手といっても、ピカドンが原爆のこととも知らず、カメを思って歌ってるだけ。彼に隠されたすごい才能など多分なく、みんな夢のようなラッキーなのだ。でも、見かけと雰囲気だけは、スターらしくカッコいい。

 大事なピカドンを捨ててしまった良一は、ピカドンが彼に歌を授けに帰って来てくれた時、大好きな寺島裕子(麻生久美子)が部屋に現れると、ピカドンのことを隠そうとする。本当は弱いままの、空っぽの彼。だが、ピカドンを頼りつつ恥じる彼の奥底には、変わらぬ愛情があり、それが何とも切なかった。
 そして、彼に捨てられたのに、愛情を注がれた思い出を大事に、ずっと良一の夢のために生きようとするピカドン。捨てられた人形たちもペットたちも、大切にしてくれる老人のそばにいながら、別れたかつての主人をずっと思っている。

 ラスト近く、巨大になったピカドンが、街を壊しながらスタジアムに迫る場面は、怪獣映画そのもの。そして、自分に語った良一の言葉を口にする。ピカドン自身として語らないのが、ショッキング。それほど良一の願望と一体化していたのだ。
 我に返った良一が、舞台を降りて裕子に近づいた瞬間、清志郎の「スローバラード」が流れ始める。この曲を聴くために観ようと思ったのだけど、聴く前からもう涙が流れていた。最後は振り出しに戻るのは、結局すべて妄想だったわけでなく、良一は再生してるはず。荒唐無稽な話なのに、強烈に抒情的。なんか意味わかんないけど、すごく切ないよ。
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2015年07月17日

ジェームズ・ブラウン 最高の魂を持つ男

 1985年、ジョージア州オーガスタ。事務所に帰って来たジェームズ・ブラウン(チャドウィック・ボーズマン)は、自分のと決めているトイレに他人が入っていたことに怒り、天井に銃をぶっ放して逃走した。
 映画は、彼の子供時代から青年時代、スターに上りつめた後までを、時代を行ったり来たりしながら描き、冒頭の場面は、映画のずっとあとに、逮捕されて投獄される場面に続く。どキモを抜く始まりだが、彼の生涯は、どの場面も強烈だった。

 森の中の掘っ立て小屋に住んでいた、極貧の少年時代。母が家を出、父はジェームズを親戚に預けるが、そこではわずかな報酬のために夜遅くまで客引きをさせられた。何とか命をつないで青年になった彼は、一着の背広を盗んだ罪で何年も服役することに。そこに慰問に訪れたゴスペルメンバーの一人ボビー・バード(ネルサン・エリス)と親しくなったジェームズは、彼の家に住まわせてもらうことになり、ボビーとともにライブに打ち込んでいく。生涯にわたって彼を支えるボビーの存在は本当に大きい。

 ライブの場面がすごく楽しかった。高速ですべるような足さばきは、マイケル・ジャクソンにそっくりで、マイケルが彼に大きく影響を受けていたのが分かる。舞台では誰もがジェームズと一緒に踊っていて、すごいノリ。曲の中では「イッツ・ア・マンズ・マンズ・マンズ・ワールド」が一番好きかも。
 清志郎が、自分のマントショーはジェームズ・ブラウンがやってたことだと言っていたけど、マントが清志郎のよりずっと地味だったこと以外は、くたびれた風でしゃがんでいる時の間奏も、去っていくフリの時の切なそうな目つきまでが、そっくりだった。

 インタビューで、今やどんな音楽にも自分の片鱗があると語る彼。実際、彼の音楽は最先端で、新しい時代を切り開き、後に続いた者たちに、多大な影響を与え続けたという。
 一方、強烈な自信は独裁になり、遅刻したり気に入らない者から罰金を取ったり、自分の気に入るリズムを追求するあまり、ギターやベースをドラムだと言わせたり。彼のスター人生は、初めから仲間の嫉妬や裏切りに満ちているが、それ以降も、まるで自分から自分のすぐそばに敵を作っているかのよう。横暴で破天荒で、問題の多い人物だったのかもしれない。

 それでも、どんな苦境にも負けず、貪欲にチャンスをモノにし、自分のスタイルを貫いていくさまは魅力にあふれている。彼の全盛期は、黒人運動と重なっていて、キング牧師が暗殺され騒然となるなか、周囲の反対を押してライブを敢行し、黒人たちに自制を求めて黒人としての誇りを訴える場面は、知的で落ち着いた本物のカリスマだ。黒人として発言すれば、白人から過激派と見られ、改善を訴えて大統領に会えば、黒人からは権力に近づいていると見られる、などジレンマも抱えていた。

 欠点が多く、たくさんの人に去られても、それ以上の多くの人々を引きつけてやまなかった人物。時々スクリーンの観客に向けて、「絶対に屈しない」とか「前進あるのみ」と気持ちを語ったり、「俺は音楽もビジネスもやるんだ」と説明したり。嫉妬で妻を殴ってしまったあとに、恥じらうような視線を向けたり。そんな演出も自然だったし、こちらを見つめる彼がチャーミングだった。 
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2015年07月05日

涙するまで、生きる

 1954年のアルジェリア。地元の子供たちを教えるフランス人教師ダリュ(ヴィゴ・モーテンセン)のもとに、いとこ殺しで捕まったアラブ人モハメド(レダ・カテブ)を、憲兵が連行して来て、裁判所のあるタンギーまで彼を送り届けるよう命令。拒むダリュにモハメドを残して去ってしまった。
 復讐にやって来たアラブ人に応戦したあと、モハメドを追い出したダリュだったが、彼らに殺されることを恐れてタンギー行きを願うモハメドに、ついに同行することに。

 それからの道のりは困難を極める。身を隠すことのできない一本道で、追手が迫ったために山を越えることになり、岩肌を登り、崖から足をすべらせ、砂嵐に遭い、大雨に打たれる。助け合ううちに、ダリュとモハメドに、友情のような連帯感が生まれていく。ダリュは初めからモハメドを客のように扱っていたし、二人ともがフランス語とアラブ語を話すことが、心の交流を助けたと思う。

 モハメドが処刑を望むのは、血の代償を要求する掟のため。自分が同胞に殺されれば、幼い弟が仇を取らねばならず、フランス人に処刑されれば、殺しの連鎖を止められるというのだ。フランス支配のなか、抑圧を受けるアラブ人が、不穏な掟によって互いを傷つけ合う理不尽。
 一方、ダリュの両親は実はスペイン人で、フランス人からはフランス人ではないと見られ、アラブ人にはフランス人だと思われる、帰属の不安な立場。彼がモハメドに親近感をもつのは、そんな疎外感からだろう。アラブの子供たちを教える彼には、多分、皆が平等に暮らせる社会が理想なのだ。だが、フランスの支配を憎むアラブ人から見れば、フランス人は、全員いなくなってほしい者たちなのだ。

 悪天候から逃れ、目的地に近づいたと思ったところで、二人はアラブ人ゲリラに捕まって捕虜になる。その中に見つけた大戦時の戦友。フランス支配の横暴に怒り、ゲリラ側につく者もいたのだ。だが、殺されずにすんだところを、突然フランス軍に攻撃される。耳をつんざく激しい銃撃。追い詰められ、投降する者も撃ち殺す非情さ。徹底的な弾圧は、「アルジェの戦い」を思い出した。

 ダリュはモハメドに、何度も逃げるようにいう。支配と弾圧と死体の山。血の掟。そんななかでも、生きることを尊いと思い、意味を見出そうとするダリュ。かたくなに拒んでいたモハメドは、選択に迷い始める。希望の見えるラストに心が癒されたが、1954年は独立戦争が始まったころで、これから弾圧と殺戮が強まっていく。二人はどうなったろうか。
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2015年06月29日

奇跡の人 マリーとマルグリット

 19世紀末のフランス。ポアティエ近郊にある、聴覚障害をもつ少女たちを教育するラルレイ学院に、14歳のマリー(アリアーナ・リヴォワール)が父親に連れられてやってくる。学院長は、聴覚だけでなく視覚にも障害をもつマリーのことを、自分たちの手に負えないと判断し、父子を帰してしまうが、シスターのマルグリット(イザベル・カレ)は、マリーの教育係を申し出て、彼女を学院に連れ戻した。

 父親の荷馬車の上で、風に手をかざすマリー。音も映像もない暗闇に閉じ込められている彼女は、手のひらで精一杯世界に触れている。
 シスターたちの制止をきかず、庭を駆け回ったあげく木に登ってしまったマリー。彼女を降ろそうとマルグリットがマリーに触れた時、マルグリットは、マリーが自分を待っていたことに気付き、彼女のなかに隠された知性や人を求める心に気付く。そして、彼女の魂が放つ強い輝きに、一瞬に惹かれたのだった。

 マリーの家から学院までの長い道のり。父を途中で帰したマルグリットは、一人でマリーを連れてくる。互いの手首をつないだり、彼女を背負ったり、リヤカーに乗せたり。マルグリットに絶えず触れていたマリーは、学院に着いた時、シスターたちの顔に次々と触れていく。マリーひとりに対する愛着や信頼が芽生えなければ、周りへのこんな反応もなかっただろう。

 生まれつきの三重苦で、それまでしつけを受けなかったマリーは、食器も使えず、着替えや髪を解くことも風呂もいやがる。そんな彼女に生活の様々を教えるのは、苦難の連続だ。彼女にそっと触れていたマルグリットは、突然つかみかかったり、押さえ込んだり。まるで激しい格闘技のよう。
 食堂で大騒ぎの二人のまわりで、うろたえたり驚いたりしながらも、シスターたちは変わらず祈りをささげ、マルグリットの格闘に辛抱強く付き合っている。シーンにぴったりに流れる、寛容を説く聖書の言葉や、困難にひるまず前進するための祈り。洞察と慰めに満ちた、長い聖書の句が非常に美しかった。

 4か月を過ぎてもマリーの抵抗は激しく、むしろ後退していることにマルグリットは焦る。慣れ親しんだ場所から無理やり連れてきて、彼女には訳の分からないことを強いる毎日。だが、マリーの状態を思えば、4か月が長すぎるとは思えない。そして、マリーはきっかけを得て徐々に生活を学んでいく。
 ヘレンケラーのサリバン先生は、両親の反対を押して一人で格闘した。マルグリットも一人だったけれど、周りにいるシスターたちの存在も大きかっただろうと思う。マリーは集団のなかでも育っていったのだ。

 マリーが気に入って絶えず触っている小さなナイフ。マルグリットは手話を繰り返してその名前を教える。何度やってもやっても理解につながらない、徒労に思える繰り返しの果てに、ふと光が差し込んだようにマリーは単語を理解する。その天啓のような瞬間。それからは怒涛のように言葉を覚え、世界が広がっていくさまはドラマチックで感動的だ。

 実は不治の病を抱えていたマルグリットは、死ぬまでにマリーにすべてを教えたいと願う。そして、人が死ぬものであること、自分がもうすぐ死ぬことをマリーに教える。病に倒れて冷たくなったシスターのなきがら。墓地に立つ十字架。死んだのちに行く天国。あらゆるところにいて見守る神様。

 マリーを思うマルグリットの独白が、聖書の詩句のように美しい。そして、マルグリットの墓標の前で、天国の彼女に手話で語りかけるマリーの言葉も。感応する二つの魂の気高さと強さ。感動に震える素晴らしいラストだった。
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2015年06月17日

海街diary

 鎌倉に暮らす四人姉妹、幸(綾瀬はるか)と佳乃(長澤まさみ)と千佳(夏帆)のもとに、女性を作って15年も前に家を出た父の訃報が届く。父が去ったあとに母(大竹しのぶ)も家を出て再婚。育ててくれた祖母も今はいない。父の葬儀のために山形を訪れた3人は、父と浮気相手の間に生まれた妹すず(広瀬すず)と出会う。すずの母はすでに死に、彼女のそばにいるのは、父の3人目の結婚相手だった。寄る辺ないすずを案じた幸は、すずに鎌倉の家に来るよう誘い、4人での生活が始まるのだった。

 しっかり者の長女幸は、母の役そのもので、妹たちの行儀にまで注意する。気ままな次女の佳乃は、姉を観察しつつ、しょっちゅうぶつかったり甘えたり。結局は共闘したりの距離感がリアルだった。ほんわかマイペースの三女千佳は、みんなのクッションのような立ち位置がいい。

 自分たちを捨てた両親を許せない幸は、祖母の法事で数年ぶりにやって来た母と、激しく衝突する。父との思い出を語ることも遠慮していたすずは、自分の存在が周囲を傷つけていると思う。
 すずが自分の母のことを幸に「奥さんのいる人を好きになるなんて、いけないよね」といい、実は妻のいる同僚椎名(堤真一)と不倫関係にある幸が、はっとするシーンが印象的だ。すずとのそんな会話によって、姉妹たちは少しずつ母や父を知り、許そうとしていくのだ。

 波乱もあるが、淡々と流れていく日常。庭木が茂る古い日本家屋。四季が移ろう鎌倉の風景が美しい。そんななか、食堂で食べるアジフライや、居間で食べるしらすの釜揚げ、大叔母(樹木希林)がもって来たおはぎなど、ものを食べるシーンが豊かできれい。
 しらすのトーストが、すずの思い出に残る父の好物だったり、ちくわカレーが祖母の味だったり。いなくなった人の面影が、食べ物のなかに宿っている。そして、代々受け継がれてきた梅酒。

 墓参りの道を歩きながら、母は「私には息の詰まる場所だった」と家のことを振り返る。そんなふとした言葉から、登場人物たちの、画面には出てこない葛藤や人生の影が、たくさんのぞいていた。すずを産んだ母をうらやましがる二宮さんには、多分子供をめぐる事情があったのだろう。佳乃の上司の坂下(加瀬亮)には、多分会社での思い切り辛い経験がある。そして、そのどれもをいとおしむ作品の視線を感じた。

 父の葬儀で始まり、祖母の法事をはさんで、最後は二宮さんの葬儀。死や人の不在やはかなさがずっと漂うなか、流れ去っていく時間が、強く意識された。4人で守っている家にもそれは流れ、きっと佳乃は誰かと暮らすために去っていくだろう。千佳はきっと店長との暮らしを選ぶだろう。すずも確実に成長していく。4人が浜辺で戯れるラストに涙がこみ上げた。
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2015年05月29日

サンドラの週末

 しばらくの休職から職場復帰しようとしていた金曜日、サンドラ(マリオン・コティヤール)は突然の解雇を告げられる。彼女が休んでいた間、彼女なしでも仕事が回ることが分かった社長は、彼女の復帰かボーナスなしかを社員に選ばせる投票を行い、同僚たちが自分たちのボーナスを選んだというのだ。主任の脅しがあったことを知ったサンドラは、社長に掛け合い、月曜の再投票を約束させる。16人のうち過半数が彼女を選べば復帰できるが、運命の期限まであと2日だった。

 解雇を知らせる電話のあと、サンドラは感情を押し殺そうとするもできず、蛇口に飛びついて錠剤を飲み下す。多分彼女は精神の病と闘っていたのかもしれない。普通の復職でも、仲間に迷惑をかけたという思いや、緊張があるだろうに、これからという時に自分の存在を否定されるショックはすごいはず。だが、生活を抱える彼女は闘っていく。同僚を一人一人訪ねるが、親しかった友人に居留守を使われたり、拒否に合うたび疲れ果て、何度も錠剤に手が伸びる姿が痛々しい。

 同僚たちが選んだボーナスは1000ユーロで、充分な金額には思えない。だが、それがどうしても必要な分、彼らはさまざまな事情を抱えている。妻が失業して、ボーナスがないと生活できない。パートナーと別れたばかりで暮らしが不安定。子供の養育費のために、休日も他の仕事をしている。etc・・。そして、つっけんどんな者も、当惑を隠せない者も、みな自分たちの選択にどこか後ろめたさを感じている。そもそも、この理不尽な二者択一は、彼らが望んだことではない。苦しいサンドラは、同じように苦しい彼らの事情に触れていく。必死だが手短な説得に、あきらめと同時に彼女の公正さを感じた。

 自分のことを一人ぼっちだといい、生きることさえ辛そうなサンドラを、夫のマニュ(ファブリツィオ・ロンジョーネ)は励まし続ける。子供たちも同僚の住所を調べたりと協力。気力を振り絞り戦うなかで、彼女に味方する者が現れ、ふっと希望がもたらされる場面が美しい。そして勇気を得たサンドラは、少しずつ変化していく。

 サンドラの説得によって主任の嘘を知り、意見を変える者。ボーナスを選んだことを後悔していた男は、良心に従うことができてほっとする。選択をめぐって夫と口論し、何でも相手に合わせる生き方を変えようと決心した女性。サンドラが勇気を出して訴えたことにより、周囲の者も、自分や状況を見つめ直すのだ。ささやかだけど確かな希望。それは誇りにつながっている。

 サンドラの頑張りは社長の気持ちを動かしたが、同時に彼は臨時雇いの更新切れを計算に入れている。もし、みんながまとまって声を上げれば、理不尽な投票自体を拒否できたのでは。そもそも、社長が自分で下したい決定を、社員の選択という形にするのが卑怯で狡猾だ。だが、そんな発想が封じられているのが現在なのだろう。
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2015年05月26日

ホーンズ 容疑者と告白の角

 木漏れ日を浴びながら愛をささやき合う若い男女。その映像が突然裏返ると、さっきの青年は暗い部屋にただ一人。最愛の恋人メリン(ジュノー・テンプル)を何者かに殺されたイグ(ダニエル・ラドクリフ)は、容疑者としてメディアや自分をののしる人々に囲まれているのだった。

 子供時代が何度もフラッシュバックして、現在と交差する。恋人との幸せだった時間と現在の孤独と苦境も。イグが暮らしているさびれた街の風景と、イグとメリンが過ごした美しい森の中のツリーハウスも対照的。どこを切り取っても、明暗が際立つ映画だった。
 そして、何より強烈なのは、犯人捜しをするイグの頭に、突然角が生えてくることだ。

 奇妙なことに、誰もが、頭から突き出た角にさして驚かず、その代わり心の奥に隠す自分の暗部をさらけ出す。駆け込んだ病院の受付嬢や母親や、看護士や医者が、自分の不倫やら性欲やら、子どもへの憎悪やらを、イグに語り出す。その誰もが、おぞましくも滑稽。イグの犯罪を疑っていた両親。父はメリンに興味をもちイグに嫉妬していたと明し、母は、息子への嫌悪を露わにする。驚き傷つきながらも、相手の告白を誘う角の力に気付いたイグは、それを使って真犯人に近づいていく。

 子供の頃、ボス役の子と、兄のテリー(ジョー・アンダーソン)と親友のリー(マックス・ミンゲラ)、紅一点のベロニカ(ヘザー・グラハム)とで、いつも遊んでいたイグ。そこによその町からメリンが越して来た。メリンが落とした十字架を、リーが繕ってくれ、それをイグが返してあげた。川に落ちたイグを助けてもくれたリー。
 彼らは大人になっても同じ町で暮らし、弁護士になったリーはイグの苦境を助け、威張り屋のボスは警官に、日和見で気弱なテリーはそのままの大人になっている。人間関係の変わらない十数年。美しいメリンは誰もの注目の的だった。小さな町の限られた人間関係のなか、メリンを殺した人物は、ごく近くにいたのだった。

 メリンに突然別れを告げられたレストラン。傷心のイグを置き去りにメリンがそこから立ち去ったあと、彼女を車で送ったのに、それを黙っていたテリー。そして、レストランのメイドの偽証。保身のための卑怯さや身勝手な欲望。嘘で固められた状況に、イグは渾身の怒りで暴力をふるう。ついに見つけた敵を前にした姿は、悪魔そのものだ。残忍な仕打ちに対し、同じように残忍な力を見せつける。ホラーのような復讐譚。

 イグにより力を与えたのは、メリンの愛が最後まで自分にあったと知ったこと。「死ぬまで愛する」とイグが言い、「私が死ぬまででいいわ」とメリンが答えた短い会話が切なかった。理不尽にも、未来を絶たれた不幸な恋人たち。だが、二人以外も、殺伐として誰も幸せな人間がいず、無残な死体が累々だ。 
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2015年05月06日

ギリシャに消えた嘘

 パルテノン神殿を歩く、金持ち風の優雅な男女。ツアーガイドで稼ぐアメリカ人青年のライダル・キーナー(オスカー・アイザック)は、昨年死んだ自分の父親によく似たチェスター・マクファーランド(ヴィゴ・モーテンセン)に目をとめる。彼の妻コレット(キルスティン・ダンスト)に頼まれて二人のガイドすることになったライダル。その夜、コレットの忘れ物をホテルに届けに行った彼は、チェスターが、ぐったりした男を運んでいるのを目撃する。チェスターは、彼に大損をさせられた投資家の依頼で訪れた探偵に脅され、誤って死なせてしまったのだった。

 ライダルは、女子学生からカフェ代をごまかし、夫婦を案内しながらも、わざと違う金額を伝えて差額を懐に入れる。彼がチェスターを助けようとしたのは、親切心以外、おそらく彼が金持ちだから。偽装パスポートを友人に頼んた時も、巧みに報酬をつり上げていく。
 だが、組織に追われつつ、胡散臭い男に頼らざるを得ない苦しい状況のチェスターが、実は本物の犯罪者、詐欺師であることが、次第に明らかになっていく。男が死んでいたことを知らなかったライダルは、彼の犯罪に完全に巻き込まれていたのだった。

 そんな中、チェスターと親ほど歳の差がある美しいコレットの存在が、ライダルとチェスターの関係を、さらに不安定にし、逃亡は困難と緊張を増していく。
 ライダルと妻の様子に嫉妬を覚えたチェスターは、次第に二人の仲に疑念を抱く。二人を探して言葉の通じない街をさまよい、泥酔し、カモにされ、悶着を起こすチェスター。夫から心が離れ、緊張から耐えられなくなったコレットは、やっと乗れたバスから一人降りてしまう。 

 宿を断られて野宿する波止場。夜明けまで来ないバス。風光明媚なアテネの街が、不便でなかなか抜け出せない場所になる。待たなければならない長い時間が、彼らを心理の渦に巻き込んでいき、その間に、チェスターの犯罪が報道され、捜査網が引かれていく。そして、コレットがバスから降りたせいで歩かなければならなくなった岩場の洞窟で、第二の殺人が起こってしまうのだ。

 登場人物はそれぞれ、自分の生い立ちや父親のことを語るが、それが本当のことなのか、互いに疑っているし、観客にも分からない。チェスターがコレットを愛しているのは確かだろうが、コレットがなぜ彼と結婚したのか、彼女の本名さえ分からない。つかみどころのないまま深まっていく葛藤と亀裂は、不安を掻き立てた。

 後半、飲んでくれていたチェスターは、手ごわい犯罪者の顔を取り戻し、ライダルは、ハメられた落とし前をつけようと、しつこいタカリを繰り返す。どこに行きつくのか先の見えない展開と、人間模様に引き込まれた。
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2015年05月04日

忌野清志郎 ロックン・ロール・ショー 2015

 2日、渋谷公会堂で「忌野清志郎 ロックン・ロール・ショー Love & Peace」を聴きに行った。

 自転車に乗って公会堂に向かってくる清志郎の映像に、もう胸がワクワク。
 最初にトータス松本が現れて、「今年も清志郎さんのすごさを、みんなで確認し合おう」と言って、「よーこそ」。それから、キーの高さに悩んで半音下げてもらったと前置きし、「ベイベー、逃げるんだ」と「ラプソディー」。歌詞の間に入れるガッタ、ガッタもそのままコピーし、全身全霊の歌だった。

 二人目はTOSHI-LOW。清志郎と共演したことはなかったけれど、いつも彼ならどうするだろうと考えている、といい、「地震が起きると戦争が起こる」という清志郎の詩を朗読して、「東の空が燃えてるぜ」と「ドカドカうるさいロックン・ロール・バンド」。

 三人目は曽我部恵一。清志郎に惹かれたのは中2の時で、「ハートのエース」が初めて買った日本人アーティストの作品だったそうだ。「九月になったのに」と「山のふもとで犬と暮らしてる」。ソロで歌うのをはじめて聞いたけど、すごくのびのいい、きれいな声で引き込まれた。

 次は浜崎貴司。「いいことばりはありゃしない」のあと、一時歌が歌えなくなった時に清志郎に「もっと明るい歌を歌っていいんだよ」と言われたといい、「明るいといえるかどうかわかんないけど、こんな時代だからこそ」と、「JUMP」を歌った。

 細野晴臣は、ひょうひょうとした感じでふら〜っと現れて、「しあわせハッピー」をにぎやかに歌ったかと思うと、またふら〜っと出て行った。ほんとにどの人も個性的。

 Charは清志郎と一緒に作ったアルバム「県立地球防衛軍」から「かくれんぼ」と「S.F.」。なぜかこの人が現れるとほっとする。特に親しい友人だったわけじゃなくても、正確な理解者な感じ。恩人でもあるし。

 奥田民生は「つきあいたい」と「スローバラード」。一曲目で疲れ切ったかに見えて、次の曲でもすごい声。もうこの2曲はこの人の十八番になったみたいだ。
 それからみんながコーラス隊で出てきて「トランジスタラジオ」。 

 チャボは「ベルおいで」と「エネルギー」。さみしい孤独な曲と、激しいロックの落差が大きい。それを照れるのが、彼らしい感じだった。
 彼が「やっと出てくれました〜!」の紹介で井上陽水が現れると、会場はすごい拍手。バックのミュージシャンがすべて消え、一人の弾き語りで「帰れない二人」と「楽しい夕べに」。

 ラストは、全員で「雨上がりの夜空に」。天井から金色のテープがたくさん降ってきて、みんなそれをつかんで振りながら拍手していた。

 最後、清志郎の過去の映像が映されたのだが、2004年2月の渋谷公会堂での「ベイビー何もかも」の前のMCがすごかった。「世の中物騒だ。この国もおかしくなってる。戦争に加担する軍事政権を作ろうとしてるんだ。普通に戦争する国にしようとしてるんだ」もう11年も前なのに、清志郎が言っているのは現在のことにしか思えない。なんて敏感な人だったろうと思う。

 翌日、上野に行くと、「敬神尊攘」とか書いた街宣車が何台も集結していて、巻き舌のようなものすごい声が怖かった。公園内にも怒声が響き渡っていて、静かなはずの空間が台無し。さすがの広さで奥に進むと離れられると思ったのに、反対の出口に近づくと、そこからもまた怒声が聞こえてくる。観光客も外国の人もいるのに、あの轟音を放置してるのはなんでだろう。

 その日は、雑誌の旅行記事に惹かれて、上野から三ノ輪まで歩いたのだが、まったく無謀だった。上野公園から寛永寺までは楽勝で、公園内を弁天堂に寄ったり、上野東照宮のぼたん園を見たりして余裕だったのに、寛永寺を出てから子規庵にたどり着くまでが大変で、歩いていた道路が突然陸橋になった辺りから訳が分からなくなり、ラブホテルの集まったややこしい迷路のなかで迷って、すごく苦労した。
 そこから一葉記念館も、ものすごく遠くて、いろんな人に助けられたけど、道を間違えて引き返したり、ウロウロ迷ったりで、随分余分なキョリを稼いでしまった。道を聞くたびに「どこから来たんですか」と聞かれ、「大阪」というと驚かれた。たどり着いた記念館では「入谷駅から歩いたの?」と言われ「上野から」というとすごく驚かれた。
 説明員の人の話を聞いていると、自分がいる場所が昔の吉原のすぐ近くで、ほんのすぐ近くに、遊女が逃げるのを防ぐためのおはぐろどぶがあったことに気付き、たけくらべの世界が現実の吉原と重なった。

 一葉は龍泉寺界隈にわずか11か月しか暮らさなかったが、地元の人々はそれを顕彰し、お金を集めて記念館を建てた。それを含めて、台東区には6つもの区立の個性的な文化施設がある。地元に密着した、文化と自治の香を感じた。大阪都構想で新しい5つの区ができたとしても、地縁も歴史も共有しない、お上からの押しつけの分割区に、東京のような文化が育つとは思えないなあと、改めて思った。

 だけど、とにかくよく歩いた日だった。東京駅で空きのロッカー探しで歩き回ったのを含め、最後に新幹線に乗れるまで、朝の9時から夕方4時まで歩いてたと思う。  
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2015年04月30日

パレードへようこそ

 冒頭、連帯せよ、組合で共に闘おう、という歌がゆっくり流れる。悲壮感とか暗さより、心が開かれて高揚する感じ。緊張を含みながらも、そのさわやかさが最後まで続く映画だった。

 1984年のイギリス。サッチャーは20か所もの炭鉱の閉鎖を宣言し、それに抗議する労働者のストライキが起こっていた。警官たちが労働者たちに襲いかかるニュース映像を観たゲイのマークは、炭鉱労働者を支援することを思い立ち、仲間に提案する。
 マークは、いつも自分たちを迫害していた警官が街に少なくなったのは、彼らが炭鉱に動員されているせいだ、と気付いたのだった。炭鉱労働者をいじめている警官もサッチャーも、自分たちと同じ敵。彼は仲間と「炭鉱労働者支援レズビアン&ゲイの会」LGSMを立ち上げて、バケツを手に募金を展開する。

 ところが、集めた支援金を送ろうと労働組合に電話するも、ゲイの会だと名乗ると切られてしまう。手を差し伸べた相手からも差別されるのは辛いはずだが、全然あきらめない彼らの打たれ強さはさわやか。炭鉱に直接連絡してみようと、ウェールズの役場にかけると、あっさり了承される。
 誰もいないがらんとした部屋で鳴る電話器に、初老の婦人が怪訝そうにゆっくり近づき、訳の分からないまま返事をする線の向こうで、狭い部屋にひしめくマークたちが、飛び上がって抱き合う。ユーモラスで、切実で、思わず吹き出しながら胸が熱くなる場面。こんなシーンが満載だった。

炭鉱を代表してやってきたダンは、Lがロンドンの略だと思ったと驚くが、初めて会ったゲイに対して、偏見を持たない公正な人物。その夜のパーティーであいさつに立った彼の言葉が感動的だった。「自分よりはるかに強い相手と闘っている時、見知らぬ人たちが応援してくれると知るのは、本当に心強いこと。みなさんがくれたのは、お金ではなく友情です」。

 ウェールズで支援者への感謝のパーティが開かれるが、ゲイの招待に反対の声も上がるなか、委員長のヘフィーナや初期のクリフが彼らを温かく迎えるが、労働者たちの反応は冷たい。だが、興味を抑えきれない女たちの質問にメンバーが応えたりのなか、徐々に距離が縮まっていく。そして、ジョナサンが得意のダンス。
自然体で、自分を解き放っている姿は魅力的。セクシーなダンスに村の女たちが夢中になると、絶対踊ったりしない田舎の男たちが、モテたいがために、ダンスを教えてもらいたいと言い出す。

 それでも、ゲイに対する世間の偏見や差別は根強く、組合員や村の者にも、ゲイへの嫌悪を露わにする者も。ストライキに対する反感をあおる新聞は、ゲイの支援を受けていることを揶揄して書き立てた。記事によって、LGSMの事務所も投石される。だが、マークは即座にその危機を反転させる。いわく、「ゲイの伝統では、侮り言葉は大切に活用する」。マスコミを利用し、支援のためのコンサートを大々的に展開するのだった。

 コンサートの前、マークたちが二度目に訪れた時、寒い中ガスも止められ、困窮を深める街の悲しみ。それでも誇りを失わない労働者たちと、LGSMのメンバーは、強い絆で結ばれていく。
 そして、ゲイであることを家族に隠していたジョーが、自立していくまでの葛藤や、ゲシンが、自分を追い出した母親と再会して絆を取り戻すさまなど、メンバーの繊細な心の軌跡にも心を打たれた。

 悲しくも、運動の結果は希望とそぐわない。ゲイに対する根強い反発が、支援を打ち切りに向かわせ、ストライキ自体も勝利には終わらなかった。だが、失望と挫折に終わったかに見えた物語は、ラストに再び連帯と友情の素晴らしさを謳い上げる。自分らしく生きるために、仲間を大事にし、差別に抗して旗を掲げるって、何てカッコいいんだろう。今や古い言葉のように思える「連帯」が輝いていた。 
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2015年04月05日

京都市交響楽団 スプリング・コンサート

 京都コンサートホールで、京響のスプリング・コンサートを聴いた。
 今回初めての試みで、プロジェクションマッピングが使用され、正面のパイプオルガンや天井に、音楽に合わせて映像が映し出されて、美しかった。

 最初の曲は、アンダーソンの「舞踏会の美女」。浮き立つような軽快で美しいメロディー。正面には、影絵のようなシャンデリアが浮かび、くるくる回る光もワルツのよう。光が天井に届いて流れると、一気に春の気分が沸き立ってきた。

 次は、宮川彬良編曲の「ファンタジア!白雪姫」。ディズニー映画でおなじみの楽しい3曲だった。

 3曲めは、デュカスの交響詩「魔法使いの弟子」。師匠の留守の間に試した水汲みの魔法を止めることができず、あわてふためく魔法使いの弟子を描いた曲で、音の強弱に合わせ、溢れて押し寄せる水の映像が、大きくなったり、小さくなったり。

 4曲めは、リムスキー=コルサコフの交響組曲「シェエラザード」から第1楽章「海とシンドバッドの船」。これはリアルな水の映像で、柔らかな演奏の時は穏やかな海の表面が映り、激しいメロディーに変わると、荒れ狂う嵐の海になって、そこに漂う小さな船が、シンドバッドの冒険を物語っていた。

 5曲目は、ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」。聞き覚えのあるメロディーで、タイトルと違って明るさのある典雅な響き。これも、とても春らしい感じのする曲だった。

 最後は、同じくラヴェルの「ボレロ」。延々と繰り返される同じメロディーが、次第に音量を上げていく。この曲にはどんな映像が付けられるのだろうと思ったら、花火のような、大きな花のような模様次々と浮かび、きれいだった。

 アンコールは、シュトラウスの「ラデツキー行進曲」のあと、指揮者の広川淳一氏が自ら電子ピアノ(キーボード?)を弾いて、菅野祐悟作曲の「感謝」を演奏した。京響は今年、クラシックのグラミー賞と言われるサントリー音楽賞を受賞していて、広川氏は、それについて、聴衆や関係者への感謝と、団員への賛辞を語っていた。

 春らしい曲の数々もよかったが、演奏者がみな穏やかで幸せそうな雰囲気で、それが会場にも伝わっている感じがして、いい演奏会だった。

 今日も、演奏会前に植物園に行ったのだが、雨に濡れた桜が美しく、いろんな種類の桜の群生は、まるで霞のようだった。まだ早いと思っていたチューリップも咲きそろっていて、とてもかわいくてきれいだった。
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2015年04月04日

忌野清志郎 OFF写真展

 清志郎の誕生日の前日の1日、愛知県新城市にある湯谷温泉の「はづ合掌」に、「忌野清志郎 OFF写真展」を観に行った。
 深い山合いにある合掌造りの建物は、高い吹き抜けの天井に、間接照明の美しい広い空間。落ち着いていて、かつとてもオシャレ。日本の伝統的な建物というより、ヨーロッパのような雰囲気だった。

 入口すぐに、清志郎の家族の名前の書かれた花と、三宅伸二からの花が置かれ、正面には、主催者からの、清志郎へのリスペクトと愛情のこもったあいさつのパネル。
 清志郎は、この温泉をとても気に入ってたびたび訪れ、ここで気持ちをリセットさせてはまたライブに出かけ、病気が発覚したあとは、療養にも来ていたという。

 好物の薬膳料理を前にしている写真など、宿でのスナップの中に、浴衣姿でうちわに絵を描いている写真があって、そのそばに、彼が絵とサインを入れた実際のうちわが、たくさん展示されていた。
 また、鳳来寺山を登って石段で休憩したり、鳳来寺や満来寺で手を合わせたり、阿寺の大滝の前に立ったり、鳳来峡の名所を巡っている写真もたくさん。それに、付近をサイクリングしている写真もあって、三宅伸二が一緒に写っていた。どの写真も、眼が優しくて、幸せそう。
 「個展」の時にも観た「奥三河の風景」と題された絵もあった。山と橋とフクロウ。そうか、ここの風景だったんだ。よっぽどこの温泉が好きだったんだなあ、と思った。

 着物姿の女の人と一緒に、ドラゴンズの応援に来ている写真もあったが、受付の女の人があでやかに着物を着ていたため、その写真の人が彼女で、パネルのあいさつ文を書いた本人だと、すぐに気がついた。
 2階に上がるとシアターがあって、完全復活祭のDVDを上映していた。チャボが「チャンスは今夜」を歌ったあと、何人かの人が舞台に現れて、清志郎とチャボに花束やレイを渡していたが、その中に、日傘をさして着物を着た女性が一際目立っていたのを思い出したが、その女性が受付の人だということにも気がついた。
 後で本人に話を聞いたら、あの場面で出てきた人は、スタッフの家族など、ごく親しい人たちだったそうだ。

 建物奥にある、緑が目に涼しい広いカフェの名前は、清志郎のアルバムタイトルと同じ「Rainbow Cafe」。普段は絶対コーヒーだけど、紅茶が好きだった清志郎を思って、アールグレイを注文した。

 前日は、少し離れた「はづ別館」に泊まったのだが、店の人に尋ねると、清志郎がいつも泊まっていた部屋を教えてくれた。露天風呂の近くの少し奥まった場所にあり、隠れ家のよう。部屋の前の飾り棚に、清志郎の印のように、小さなウサギの置物が置かれていた。
 写真展でも、復活祭の直後に、その部屋で山のような船盛りを前に、笑顔で映っている一枚があった。窓から宇連川を眺め、翌朝またサイクリングに出かけたのだろう。
 今度また来られたら、清志郎が愛した鳳来峡を、ゆっくり巡ってみたいと思う。 
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2015年03月29日

バベルの学校

 アフリカや中東、アジアなど、世界中からパリにやって来た、11歳から15歳までの子供たち。彼らが学ぶのは、フランス語を学ぶ集中トレーニングの適応クラス。数学や歴史も勉強するが、学力の基礎は何より言葉。このクラスでの学習が、彼らがフランスで生きていく力となっていく。

 母国を離れた時の気持ちを先生に聞かれ、友達にさよならも言えずに悲しかった、とか、腹が立ったと話す子供たち。セルビアからきたミハイロは、母親がユダヤ人のため、ネオナチの迫害から逃れてきた。モーリタニアからのラマは、父親に引き取られた先で虐待を受け、13年離れていた母親に助けられて渡仏。ギニアからのシェナブーは、学習に身が入らないことを心配されるが、11歳の今、両親のいる故郷に帰れば、性器切除の危険が待ち受け、14歳には強制的に結婚されられてしまう。
 ラナやシェナブーと同じ黒人でも、イギリスから来たケッサの理由は、英語のほかにフランス語を話せるようになるといいと言われたから。ベネズエラからのミゲルも、音楽を学ぶために来ているが、故郷は危険だらけで、道を歩くこともできなかったと話す。

 保護者との三者懇談の場面が何度も映るが、両親が離婚し、フランスに渡った片親を追ってやって来た子供たちも多く、忙しい親のもと、一人で何日も留守番をしたり、狭い住宅に多人数で住んでいたり。また、子供がフランス語をどんどん習得していくのに反し、学校に通えなかった母親が読み書きができなかったり、フランス語が話せない親のために子供が通訳したり。移民である親たちの置かれた厳しい状況が浮かび上がる。
思春期の難しい時期の子供たち。ケンカになったりぶつかったりもするが、次第に心を通わせて仲間になっていく。急に引っ越すことになって、学期の途中でクラスを去るリビアからのマリナム。彼女は新しい土地でも適応クラスに入れるだろうか。留年することに抵抗し、処置を人種差別だと訴えたラナに、先生は懸命に説得し、次の試験で頑張ることに。
 子供たちの人生や将来を見つめた、担任の先生の粘り強い丁寧な指導が胸を打つ。それぞれが抱える状況や、互いの違いが大切にされる空間は、フランス社会の豊かさと、多様な民族や文化を行け入れた社会の、今後の大きな可能性をを表していると思った。

 この映画はドキュメンタリーで、学期の終わり、子供たちは普通クラス行きや進級が決まり、先生は学校を去ることが決まる。感謝と別れがたさでみんなが泣き、無口で大人しかった中国からのシンも、感情を爆発させて涙を見せる。子供たちはこの後も、絆を強めながらそれぞれ成長していくことだろう。心温かく、感動的な映像だった。
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2015年03月28日

女神は二度微笑む

 インドの大都市コルコタ。冒頭、カーリガーター駅で、地下鉄サリン事件を思わせる毒ガス事件が起きる。
 その2年後、一か月前から消息不明になった夫アルナブ・バクチを探して、ロンドンから妻のヴィディヤ(ヴィディヤ・バーラン)がやって来た。国際空港から警察に直行した彼女は、夫の捜索を依頼したのち、夫が滞在した宿に着くが、宿ではアルナブという客などいなかった、と言われ、2か月前からIT専門家として働いていたはずの、国家情報安全局(NDC)でも、夫の勤務記録はないと告げられる。さらに、夫の通っていた小学校でも、叔父の家でも、アルナブなど知らないと言われるのだった。
 ところが、NDCの人事課長アグネスが、アルナブが、かつて職員だったミラン・ダブジにうり二つだということを思い出す。

 ミランは夫と同一人物なのか。ミランとそっくりなために夫は事件に巻き込まれたのか。ミランのことが分かれば、夫の消息につながるはずだと考えるヴィディヤ。だが、情報局の司令官カーン(ナワーズッディーン・シッディーキー)も、ミランという男などいない、と断言。そして、DCNの上層部の者の指示により、アグネスをはじめ、ミランの情報に触れようとした人物や証拠が、次々と消されていく。

 国際空港に降り立った時から、美しいヴィディヤには客引きのタクシー運転手が群がった。新米警察官のラナ(バラムブラト・チャテルジー)も彼女に惹かれ、探索を共にしてどこまでも助ける。そして、彼女に手を差し伸べずにいられないのは、彼女が臨月まじかに見える身重の身だから。ラナの頼みにそっぽを向いていた情報屋も、ヴィディヤの懇願で重要な情報を与えてくれた。だが、その体は、敵の攻撃から自らを守るにはあまりにも弱く、危険にさらしてはいけないものだ。そんな彼女が、幾たびもの危険を危機一髪でかいくぐっていくシーンの連続に、ハラハラドキドキしどおしだった。

 気が強く、賢いヴィディヤ。部下を完全に威圧しているカーンが、彼女の言葉の反撃に、思わずたじろぐ。相手が無意識に使った名前の呼び方から、ミランのことを知っていると判断したり、部屋に残されたお茶のコップから、屋台の少年の目撃情報にたどり着いたり。少しの手がかりから真実に大きく近づいていく。夫と同じくITの仕事に就いていて、ハッキングもお手の物で、NDCの何重もの防御壁を乗り越える。
 敵かと思った相手がそうでなかったり、思わぬ人物が敵の司令塔だったり、親身な手助けが策略だったり。それでも、夫が消えた悲しみと孤独に耐えて、戦い続けるヴィディヤの不屈な姿が胸を打つ。だが、真相に近づくということは、強力な悪の標的に定まっていくということだった。

 ドゥルガー神の祭りの準備で忙しいコルコタ。町は活気にあふれ、人々は、買い物をしたり話し込んだりしているほか、道端で歯を磨いたり、昼寝をしたり。公共の空間にまで生活があふれているよう。
 祭りの当日、女性たちは赤い縁取りのある白いサリーを着て、行進していく。そして、その祭りの最中、ヴィディヤが最大の危機に直面する時がやってくるのだ。夫がめでたい日に着て欲しいといっていたサリー。ラナが、夫が見つかったら着て欲しいといって贈ってくれたサリー。それを纏った美しい彼女。そして、すべてが裏がえる驚愕のラスト。数々の伏線を思い返しても、あまりの驚きに唖然とする。本当に面白い映画だった。  
posted by HIROMI at 10:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記