2014年10月13日

火のようにさみしい姉がいて

 シス・カンパニー公演「火のようにさみしい姉がいて」を観た。

 開演まじかの控室で、セリフをつぶやく男(段田安則)。せかせにやって来た係の青年に、男は故郷で通っていた床屋の女の色っぽさを語る。マネージャーである妻(宮沢りえ)が現れると、二人は芝居の稽古に興じ、男はセリフを飛ばして女の首を絞める場面に急いでしまい、女にとがめられる。

 シェークスピアの格調高い長いセリフ。男はのべつまくなしにそれを口にし、妻との会話も、すぐにセリフの応酬に変わってしまう。芝居が現実を覆ってしまっているかのよう。夫を支えるしっかり者の妻でさえ、お腹に22か月の子供を宿しているなどと言い、男はそれに話を合わせ、二人には狂気と妄想の臭いがする。

 療養のために男の故郷に帰ってきた二人は、バス停のありかを尋ねようと、誰もいない古びた床屋に立ち寄った。妻は、男から何度も聞かされた床屋に似ているといい、男は違うという。女主人(大竹しのぶ)と客と、村人たちが現れるが、初めから陰険だった彼らとの関係は、彼らと口をきけばきくほど、さらに陰険になっていく。
 女主人と村人たちが、二人に向ける敵意は、二人がよそ者だからかと思いきや、彼らは男が村の出身者だと知っていた。混乱した男は、兄弟を呼んでほしいといい、弟がやって来るが、それは男には見知らぬ人物。次に姉だという女がやって来るが、それは何と床屋の主人だった。

 毒消しを売り歩いていたという老女たち。カミソリをふりかざしながらしゃべる女主人。彼らが徹底して男をからかい、貶めるようとしているのなら、それは一体何のためだろう。それとも、もしやおかしいのは男の方なのか。姉だという女の言葉を拒否していた男は、次第に説得され、姉さんと呼んでひざにくずれる。すると、姉は、さらに衝撃的なことを口にするのだった。

 男は、自分が故郷を捨てたことも、その理由も、忘れ去っていたのだ。それは、覚えているにはあまりにも恐ろしいこと。まるで他人のように語っていた床屋の女は、実の姉だった。その記憶が官能的なのは、二人の関係を示唆している。男は現実に耐えられず、芝居の世界に逃げ込んでいたのだろう。

 男が芝居で女の首を絞める場面が何度も出てくるが、殺しの結末は最後に現実になってしまう。それは、激昂した妻が、自分の方が男より才能があった、と言ったから。男はその本当のことに対峙できなかったのだ。現実から逃げ続けた男は最後にすべてからしっぺ返しを受けるのだ。

 シュールで不条理でショッキング。美術や演出も含めて、すごく見ごたえのある舞台だった。 
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2014年10月10日

鬼火賀篭 濡れ髪剣法

 市川雷蔵の映画デビュー60年を記念した「雷蔵祭」で、「鬼火賀篭」と「濡れ髪剣法」を観た。

 「鬼火賀篭」は、主家の失地回復のために戦う青年武士と、彼らを助ける侍くずれのやくざの物語。
 月太郎を名乗る、神出鬼没の正体不明の男。彼を慕う芸者の菊次は、将軍に直訴をしようとしていた家老を殺した、弾正一味の男の妹。家老の娘の琴江は、父を殺されたショックで気が狂うが、彼女は、月太郎が助けた伴次郎の許嫁で、伴次郎の同志である兵馬の妹。兵馬は、旅役者の仲間にまぎれて機会をねらっているが、その一座の女座長は、兵馬にぞっこん。陰謀がめぐり、復讐と恋がからんで人間関係もめぐっていく。
 やくざだけど、実は高い身分のはずの月太郎は、侍ことばも自在。白頭巾になって現れたり、超かっこよかった。

 「濡れ髪剣法」は、城を出奔した若殿が、家の乗っ取りをたくらむ家老の陰謀と戦うコメディー。
 ご機嫌取りの家来に囲まれて、自分の剣の腕前を過信していた若殿は、許嫁の鶴姫に実力のなさを暴かれてショックを受け、自分の本当の力を試そうと、一人で江戸に向かう。世間知らずで、無銭飲食をしたり、股引のまま歩いたり。のんきな風来坊に見えながら、腕はどんどん上達して、ふとしたことから自分の藩の足軽に取り立てられ、手柄を立てて出世していく。
 片や、城では、いなくなった若殿を重病のことにして大騒ぎ。家老はそれに乗じて、自分の息子を跡取りにすべく、大殿の暗殺をたくらんでいた。
 アホぼんに見えていた若殿が、最後に超かっこいいセリフを放って、見事な立ち回り。

 雷蔵は、役どころに合わせて雰囲気ばかりか、発声までが変わる。どんな役でも、水もしたたるいい男だ。
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2014年09月28日

京都市交響楽団 第583回定期演奏会

 昨日、京都コンサートホールに、京響の第583回定期演奏会を聴きに行った。

 最初の曲は、ブラームスの「悲劇的序曲」。ヴァイオリンの群れが波のように音を繰り広げる、悲壮で劇的な感じの曲だった。

 2曲目は、チャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲ニ長調」。華やかで美しいメロディー。ヴァイオリン独奏は、2002年のチャイコフスキー国際コンクールで最高位だった川久保賜紀さんだったが、細かい音が鋭く立って、速弾きが流麗。華奢な人だったけどすごい存在感だった。
 ハプニングがあって、第一楽章の終わりころに、川久保さんんが突然第一ヴァイオリンの人に近づいたと思うと、彼とヴァイオリンを交換した。第一ヴァイオリンの人はそのまま少し弾き続けた後、それを後ろの人に渡し、ヴァイオリンはそのまま次々と後ろに静かに渡って、最後の人が舞台の外に持って行った。
 弦が切れたからだそうで、第一楽章と第二楽章の間は少し待たされた。でも、演奏中は、何事も起こってないかのように、演奏がなめらかに続けられ、弦が切れたことさえこちらには分からなかった。すごいなあ。

 3曲目は、ストラビンスキーのバレエ音楽「ペトルーシュカ」。今度はピアノ独奏が入って、そのほかにもハープや太鼓やたくさんの管楽器。いろんな楽器がおもちゃ箱から次々と現れて音を出しているような、にぎやかでめまぐるしい曲だった。

 指揮者のドミトリー・リス氏は、体が大きくて見栄えがした。アンコールで何度も出たり入ったりしていた時、舞台を袖まで横切ったり、ユーモラスだった。
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2014年09月24日

舞妓はレディ

 京都の花街、下八軒のお茶屋「万寿楽」。下八軒の舞妓は、万寿楽の娘の百春(田畑智子)だけで、舞妓不足に悩んでいた。そこに舞妓志望の春子(上白石萌音)がやってくるが、紹介者がいない上に、言葉はコテコテの鹿児島弁と津軽弁のミックス。おかみさん(富士純子)に追い返される春子だったが、彼女の言葉に興味をもった言語学者の京野(長谷川博己)は、春子を一人前にできれば、御茶屋遊びの面倒をすべてみてやる、という約束を、常連客の北野(岸部一徳)に取り付けて、彼女に京ことばの特訓をすることに。

 春子が初めに話してる言葉は、ところどころの単語以外は、聞いていても意味不明。彼女の祖父母が話すことは、もっと訳が分からない。方言って強烈だなあ、と思った。京都弁も、やんわりしてるけど、多分同じくらい個性的なんだろう。
 初めはイントネーションをまねることもおぼつかない春子に、京野は、「おおきに」「すんまへん」「おたのもうします」の舞妓必須3単語から教えていく。なるほどこれは「マイフェアレディ」なのね。

 押し込みさんになった春子は、早朝から掃除や雑用。徹底的に裏方の、地味でしんどいエンドレスの仕事。日舞や鼓や三味線も習うが、お師匠さんたちのキツイこと。それでも春子がめげないのは、おかみさんや、店の前を通る先輩のおねえさんたちが、温かく見守ってくれるから。そして、京野への淡い恋心。
 だが、京野以外からもお国ことばをしょっちゅう注意される毎日のなか、京野の助手(濱田岳)から、京野の目的は自分が得をしたいから、と聞かされ、声が出せなくなってしまう。そして、それが解けたのは、踊りの師匠からきつく叱られた時。夢を追いながら、その夢を咲かせる場所で精いっぱい頑張る健気な春子に、胸が熱くなった。

 芸者の里春(草刈民代)は、歌舞伎役者(小日向文世)と恋仲だが、なじみの客の高井(高嶋政宏)が彼女にしつこく求愛。それをやんわりかわす場面とか、京野の助手はお茶屋に生まれた男の子だったために、外に出された、とか、花街にありそうな人間模様がおもしろかった。

 京都に実際にあるのは下八軒じゃなく上七軒だし、華川は本当は白川。川のそばの八軒大明神は、巽神社だろう。舞妓不足をアルバイトの女の子で補ったり、百春が三十路になってもまだ舞妓だとか、そんなことが本当にあるのかどうか分からないけど、とても笑えた。
 ミュージカル仕立てで、突然始まる歌とダンスが、とても楽しい。ラストはみんなの中央で、春子が青春謳歌のように踊って歌う。はじける若さ。声がとってもきれい。何といっても、若いもんなあ。 
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2014年09月19日

NO

 1988年、チリのピノチェト政権は、長期間にわたる軍事独裁への国際批判の高まりから、信任投票を実施。ピノチェト支持派と反対派による一日十五分のテレビコマーシャルが展開されることになった。
 そんななか、広告業界で働くクリエーターのレナ・サアベドラは、反対派の中心メンバーであるウルティアから協力を求められ、投票に勝つために自分の能力を注いでいく。

 初めは皆、政権側の出来レースだと思っていた。「勝てると思うか」というレネの問いに、会議に集まった者たちは、「勝つことではなく人々を啓発するのが目的」とか、「今までで許されなかった意見表明をすることに意義がある」などという。彼らが選んだ映像は、ピノチェトのクーデター当時の、軍隊がデモ隊に襲いかかる場面や、夫や息子を殺された女たちが悲しみのダンスを踊る場面。それらは確かに歴史の事実で、忘れてはならないもの。だが、広告マンとして、レネは、そうした映像の暗さは人々の心を動かさないと直感する。

 当時政権が始終流していたのは、ピノチェトを礼賛する人々が涙を流したり、彼を英雄視する映像。まったく北朝鮮と同じ。だが、その政権のもとでそれなりに経済が発展し、人々はアメとムチによる長い恐怖と抑圧のなか、疲弊と諦念で、変化を望むことを躊躇していた。

 レネは、コーラや電子レンジのコマーシャルをてがけ、このやり方は今の時代にマッチしている、とか、これこそ人々が望んでいる表現だ、とかと言って、一瞬でクライアントを説得する。彼は高い収入を得ていい車に乗り、皮肉にも体制の中で成功している人物だ。だが、そういう生活を享受していても、一番大事なのは自由だと思っている。彼の上司のグスマンは支持派で、レネを懐柔したり脅したりするが、それに対して眼前で思い切り不快感を口にするのが気持ちいい。
 そして、人々の欲望にコミットするプロとして、ユーモアや明るさや希望にあふれる映像で、自由を渇望する人々の心に訴えるコマーシャルをどんどんと作っていく。専横はもうたくさん、尊厳を取り戻そう、今こそ流れを変えるときだ、不正のないお互いが傷つけあわない社会にしよう、と呼びかけるのだ。

 反対表明が許されるようになったといっても、反対派の活動は危険と隣合わせで、撮影は警官たちの目を盗んであっという間。かかわっている者は尾行され、レネは家に「売国奴」と落書されたり、息子のシモンに危害を加えるという電話を受けたりもする。表向きと違い、政権側の残酷さや執拗さは変わらない。

 だが、夜中にわずか15分だけ流れるコマーシャルにもかかわらず、反対派の主張は国中で反響を呼び起こす。焦った政権側は、あれはヤラセだとか、出演者はアカだとかと卑怯な手でけなし始める。突然手法を変更して、レネたちと同じようにダンサーを使おうとしても、アーティストたちはみんな反対派のために、素人しか集められないのには笑ってしまった。

 だが、軍事政権は、盛り上がった反対派の集会に襲いかかり、警棒と銃声の嵐のなか、かつてと同じ残忍な体質を露わにする。この場面は本当に恐ろしかった。
 それでもラストは、反対派勝利の歓喜のなか。シモンを抱きながら、静かに群衆をかき分けるレネの表情が何とも言えない。
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2014年09月07日

水上勉没後10年展

 昨日、京都三条のギャラリーひるげえとに、「水上勉没後10年展」を観に行った。枚方市の職員だったオーナーが水上氏に講演を頼んだ縁で、氏に画廊を開くことを勧められたことから開いた店だそうだ。

 水上氏による、化野にあるあゆ料理店「平野屋」や、「今宮神社のいぶりもち」、「堀川通りの路面電車」など、京都への愛着とゆかりの深さを表す墨絵がたくさん。「四条通から見た先斗町」には1985年のサインがあったが、描かれているのはもっとずっと古い風景のはずで、どの絵も、古きよき時代の京都の情緒がしみていた。
 「妙」「無一物」と書かれた書や、椿の小絵、自作の短歌に絵を添えたものなども。闘病を語るオーナーあての手紙も飾られていた。

 水上氏と親交のあった市田ひろみや加藤登紀子の書や、絵本作家の田島征彦の絵なども展示されていた。市田さんの書はすごく達筆。加藤さんの書は「男は心で嘘をつく」とか「ひとりぼっちはひとりじゃない」とかの言葉が印象的だった。

 6時からはトークショーがあって、水上氏の娘さんや、市田さん、渡辺惇さん、一滴文庫で陶芸を続ける作家の人などが、それぞれの思い出を語ってくれて、とても興味深かった。
 一滴文庫はもともと、大飯原発の監視小屋だったのがとん挫して、その後土と格闘する陶芸や竹紙をすく場所になったという。
 渡辺さんはもと炭焼き職人で、それをやめて郵便局の請負配達をしながら絵を描いていた時に、水上氏が尋ねて来て、小説の表紙を依頼されたそうだ。
 故郷に原発が立ち並ぶことに、怒りと忸怩たる思いがあって、自然とのかかわりを追究するなか、それに共感する人々との縁を広げていったのでは、と思った。 
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2014年08月23日

韓伽椰 ピアノリサイタル

 昨夜、アルカスホールで韓伽椰(ハンカヤ。最後の字は、変換できないけど本当は人偏)さんのピアノリサイタルを聴きに行った。

 一曲めは、ベートーヴェンの「ソナタ ト長調」。
ベートーヴェンの初期の作品だそうで、曲が進むにつれて激しさが増すものの、全体的におとなしく、明るいさわやかな曲だった。

 二曲目はバッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのバルティータ」より「シャコンヌ」ニ短調。
 演奏旅行から帰ってくると、出かけるときには元気に見送ってくれた妻が亡くなっていて、その悲しみを表現した曲だという。もとヴァイオリンのための曲だったものを、19世紀になってブゾーニがピアノ曲に編曲したのだそうだ。足取りの重たい悲痛な感情があふれていて、途中からは流麗できらめくような明るさに移っていく。妻の昇天を心から願うバッハの思いが込められて、演奏しながら、すべてを浄化する曲の力を感じるそうだ。厳しく激しく、きらびやかな曲だった。

 次は、細川俊夫氏の「ピアノのためのエチュードU〜点と線〜」。
 現代音楽で、不規則な雨だれとか、バラバラな忍び足とかを連想した。鳴るか鳴らないかのようなごく小さな音や、左手を右手が追いかけるような旋律が特長的だった。

 休憩をはさんで、再び細川氏の「舞い」。古代の日本の舞踏をイメージした曲だそうで、太鼓の音のような低い響き。ピアノで聴くのは初めてのような、変わった感じの曲だった。

 最後は、ラフマニノフの「コレルリの主題による変奏曲 ニ短調」。
 ロシアからアメリカに渡ったラフマニノフが、故郷を思って民謡によせて書いた曲だそうで、いろんな舞いが組み込まれている。これも、暗く激しくきらびやか。どこか不均等な感じが現代的に思えた。

 音の渦にうっとりと引き込まれ、すてきな時間だった。一曲ずつの説明が聴けて、分かりやすかった。
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2014年08月21日

めぐり逢わせのお弁当

 小学生の娘と夫を送り出しがイラ(ニムラト・カウル)は、腕によりをかけて夫のためのお弁当を作り始めた。上の階に住むおばの助言で、スパイスの隠し味も上々。それを弁当配達人に渡したものの、届いた先は全くの別人。保険会社の損害計算係で退職間近のサージャン(イルファーン・カーン)だった。

 たくさんの弁当を自転車にくくり下げた配達人が駅に向かい、さらにたくさん集まった弁当が電車に積まれて運ばれて行き、着いた駅で今度は分けられ、さらに小さなまとまりになってビルに入ると、オフィスごととか部署ごととかではなく、なんと一人ひとりの机の上に置かれていくのだ。すごく大量だし、名札がついているわけでもないのに、どうやって正確に配ることができるのか。そして、そもそも、自分で持って行って持って帰ればすむものを、どうしてわざわざ配達してもらうのか。不思議な習慣と技術に目を見張ってしまった。
 このシステムは、ハーバード大学が注目し、イギリス王室も視察に訪れたという。そんな完全無欠の配達に起きた珍しいミスが、見知らぬ二人をつなぐことに。だが、イラの夫のもとにはサージャンが頼んでいた仕出し弁当が届いていたのだから、ここでのミスは二つだ。

 イラは、見事にカラになった弁当箱と、相変わらず無反応な夫とのかみ合わない会話から、誤配達に気付くのだが、夫は携帯に夢中で、イラがハネムーンで着たドレスを着ても無関心。そして、彼女は洗濯時に、シャツに付いた香りで夫の浮気に気付く。彼女が弁当箱に忍ばせた小さいメモには、次第にそんな悲しみがつづられていく。そして、初めは料理に対するぶっきらぼうな感想だったサージャンの返事にも、亡くなった妻との思い出や、電車のなかでのできごとや、イラへの励ましがつづられていく。イラもサージャンの健康を気遣い、二人のやり取りは、何気ない日常を短く描きながら、温かさと慰めに満ちている。

 サージャンの後任に就くはずの若いシャイク(ナワーズッディーン・シッディーキー)。孤児だったという逆境をたくましく泳いできた彼は、人なつっこいけれど要領のいい調子者で、もの静かで堅実なサージャンと好対照に見える。
 シャイクが電車の中で野菜を切ったり、露店でたばこをツケで買ったりするのも、見知らぬ文化に驚いた。昼休みごとに、バナナとリンゴを持ってサージャンの前に現れ、おいしい弁当を分けてもらう彼。4段重ねの色とりどりの中身は、カレーとナン以外は何かわからず、インド料理にも興味がわいた。

 イラとサージャンのすれ違いは、もどかしくて切ない。最後にイラが書いた手紙は、サージャンに届くのだろうか。アクセサリーをすべてはずした彼女は、本当にブータンに行くのかもしれない。自宅の前に集まった子供たちに笑顔を見せるサージャン。二人が戻る日常は、二人が出会う前より確実に新しいはずだ。 
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2014年07月30日

銀瓶vsパギやん ビビンバ寄席

 書くのが遅くなったけど、26日、天満天神繁盛亭で「銀瓶vsパギやん ビビンバ寄席〜6杯目〜」を聴いた。
 古典落語あり、韓国語落語あり、講談やギター漫談ありで、いろんな出し物がいっぱい。タイトルどおり、まぜご飯のように賑やかな内容で、楽しかった。

 最初は、桂吉之丞さんの「子ほめ」。これは以前聴いたことがあったけど、短い話なのに、演違うと別の話のような感じがした。
 次は銀瓶さんの韓国語落語で、「犬の目」。この前に、サルが主人公の短い話があったけど、言葉が分からないのに、表情豊かで笑ってしまった。「犬の目」は、字幕つき。怪しげな眼科の話で、ブラックでかなりドキドキの話で面白かった。

 次は李高麗超爆の太鼓漫談「木津堪助任侠伝」。百姓だった堪助が豪商の娘と結婚し、治水や地域の復興に尽力した話。淀屋橋は、豪商が娘の習い事のために架けたものだ、とか、明治維新の時、大阪の商人が莫大なお金を出して、それなしには明治政府の施策はなかった、とか。またしても趙さんはものすごく博学だと思った。

 中入りの後は、また趙さんの出番で、ギター漫談&当世阿呆阿羅経。阿呆陀羅経では、怪しげな坊さんの格好になって、世間のアホさを、あらん限りの言葉でやじり倒していた。

 トリは銀瓶さんで、「一文笛」。子供のために改心するスリの話で、これも以前に聴いたことがあって、オチを知っていたけど、銀瓶さんの方がずっとシビアな感じで迫ってきた。

 出囃子はこの間聴いた「アリラン」。軽快でこの間のと印象が違ったけど、かっこよかった。
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2014年07月27日

オフサイド・ガールズ

 ふらっとねやがわで、イラン映画「オフサイド・ガールズ」を観た。
 ドイツW杯の出場がかかったイラン対バーレーンの試合が舞台。女性のスポーツ観戦が禁じられているなか、スタジアムで応援しようとした女の子たちの奮闘を描いた映画だ。

 会場に向かうバスの窓から旗を振り、満員の車中は興奮で渦巻いている。騒ぐ客に怒った運転手が車を降りてしまい、乗客が彼を説得して連れ戻す。そのバスのなかに、男装した女の子がひとり。女だと見破った客がいたり、チケットを高額に吹っかけられたりしながらも、入口突破をしたかと思うと、すぐに捕まって連行されてしまった。

 スタジアムの裏、観客の歓声が響く所に、同じように観戦をたくらんだ女の子たちが集められ、兵士たちが監視。顔に国旗を描いた子、そのままで男の子に見えてる子、兵士の服装をしたために手錠をかけられた子も。作戦がそれぞれ個性的。兵士は威圧的だが、家が大変なのに命令で任務についていたり、彼らにも事情がある。そして、兵士も女の子たちも、まともに観戦できないのは同じ。

 ひとりの女の子が、トイレに行きたいと言い出し、兵士の一人が付き添うが、スタジアムにあるのは男子トイレだけ。女の子に使わせるために、わざわざ全員を追い出し、女の子が出てくるまでは、入ってくる連中を絶対阻止。そのためにトイレの入り口は兵士と男たちの押し合いになってしまうのだが、たかがトイレで大騒ぎなのが可笑しかった。

 一度は逃げた女の子が、兵士がかわいそうだからと、戻ってくる。兵士の恰好の子も捕まるまでは観戦していた。二人が語る試合の様子。拘束されてるのも忘れてしまいそうな、イラン優位の予感。
 分隊に移送されることになり、全員バスに乗せられるのだが、もうバスの中は試合の続きに夢中。店の前に止まれば、店のテレビに釘づけ。発車すると、またラジオの中継に夢中になる。
 そして、車中のみんなが勝利を祈るなか、ついにイランは試合に勝って、移送する方もされる方も、喜びに湧き上がる。

 バスの窓から見える街も、喜びに酔った人々であふれ、旗が振られ、花火が上がっている。結局、幸せな群衆のなかに混ざってしまうみんな。観ている方も、とても幸せな気持ちになった。
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2014年07月26日

怪しい彼女

 食堂で働く70歳のオ・マルスン(ナ・ムニ)は、頑固な毒舌ばあさんで、常連客にも食ってかかる。家でも同じ調子で、嫁の料理や子育てにもバンバン口出し。大学教授の息子ヒョンチョル(ソン・ドンイル)が大の自慢で、仕事に行く息子をちやほや見送ったかと思うと、姑に先を越されて茫然としている嫁に向かって、すかさずイヤミを連発。とうとう嫁は、ストレスで心臓発作を起こし、彼女を心配した家族は、マルスンを施設に入れる相談を始めるのだった。

 強烈ないびりの数々に、嫁はよくぞ長年無事でいたなあ、と思う。もっと早く倒れても不思議じゃない。自業自得で家に居場所を失くしたマルスンは、オードリー・ヘプバーンの写真に惹かれて写真館に入り、遺影を撮ってもらおうとするが、フラッシュを浴びた瞬間、なんと20歳の容姿に戻ってしまう。

 若返ったマルスン(シム・ウンギョン)は、驚くばかりで、若さを利用しようとなどしない。ヘプバーンへの憧れからオ・ドゥリと名乗るが、生活圏も変えず、取りあえず店の経営者のパク氏の家に下宿。行くところは、以前と同じ老人が集まるシルバー・カフェだ。電車で赤ん坊を泣かせている若い母親に説教をしたり、同じくらいの年の男の子たちを孫扱いしたり。見かけはキュートなのに、中身は70歳のままのちぐはぐさと不思議さが超楽しい。
 この間観た「私の男」の二階堂ふみが二十歳と知って驚いたが、70歳になりきった同じく二十歳のシム・ウンギョンの演技もすごい。二十歳の才能恐るべし。

 オ・ドゥリは、歌の上手さをプロデューサーのハン・スウン(イ・ジニク)に注目され、孫のジハ(ジニョン)のバンドのボーカルとして活躍することになるが、若い彼女から浮かび上がってくるのは、夫を戦争で亡くし、、貧しい中息子を懸命に育てた、たくましい母の姿だ。「考えないで、過ぎたことは。恋しがらないで、去りゆく人だから」と歌う彼女に、同じ若さで、乳飲み子を抱えて働くかつての彼女の姿がオーバーラップする。母を求めて這ってくるボロを来た赤ん坊。雇ってくれた店を裏切っても、何とか生き延びなければならなかった。その苦難と、息子への愛情が胸に迫った。
 彼女に好意をもったスンウの家に行っても、酔いつぶれたスンウに子守唄を歌うオ・ドゥリは、やはり母の顔をしている。

 オ・ドゥリの正体を見抜くのは、かつて彼女の家に奉公していたパクだけだが、息子のヒョンチョルもついに気付く。自動車事故を負ったジハの輸血用血液が不足し、オ・ドゥリは輸血を決意するが、血を抜くと元の体になってしまう運命。それを止める息子に、オ・ドゥリは、「何度生まれてもまた同じ人生を歩いて、またお前に会いたい」という。互いの感謝と愛情のあふれる場面に泣かされた。

 最後、画面に「すべての母親に捧げる」の文字が。最近立て続けに親子の映画を観たけど、この作品が一番さわやかだったと思う。 
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2014年07月21日

アリラン峠を越えていく〜在日コリアン音楽の今〜

 昨日、国立民族学博物館で、研究公演「アリラン峠を越えていく〜在日コリアン音楽の今〜」を聴きに行った。

  
 戦後、朝鮮半島が南北に分断されたことから、在日コリアンのコミュニティも分断されたが、厳しい差別や偏見に抗するなかで、1983年、大阪の在日2世、3世が集まって、政治的に分断された在日を、文化を通して和解させる試みとして「生野民族文化際」が開催され、その後同様の催しが他県にも広がっていったという。 朝鮮の民族文化は、1世たちにとっては、身体の深くにしみついているものだったが、2世や3世にとっては、学ばなければならないものだった。在日の音楽には、学んで身体化され、確認されたコリアンとしてのアイデンティティと、日本での生活体験が託されているという。

 プログラムの最初は、在日コリアンで唯一のパンソリ演者である、案聖民(あん・そんみん)さんによる、短歌とパンソリ「水宮歌」。パンソリは悲しいだと思っていたけど、竜宮王の命令ですっぽんをがウサギの肝を探しに行くという面白い話で、続きがもっと聞きたいと思った。

 次は、聴きたかった李政美(い・じょんみ)さん。
 在日の詩人の娘への「遺言」、治安維持法により逮捕され26歳で命を落とした詩人の「序詩」、韓国の詩人が妻に送った「あなたの墓のそばで」、韓国の民主化運動で歌われた「ひでり」、李さんのふるさと東京・葛飾を歌った「京成線」。温かく深い声。激しさも秘め、心に響いてきて、引き込まれた。

 二部は、金剛山歌劇団による、民族楽器の演奏。
 屋内で演奏されていた伝統楽器を、音量や音域を広げ、西洋の音階に調律し直した改良楽器。
 琴カヤグンやチェロと二胡が混じったようなソヘグムもきれいだったが、短い木の棒のようなものではじきながら演奏する古い琴・コムンゴが、低い音とジャズのようなリズムで独特だった。

 最後は、アリラン・メドレー。有名なアリランは、1926年の映画の主題歌だったそうで、アリランと名のつく民謡は、朝鮮半島の各地にあるという。最古のものは600年の歴史があるそうだ。6つのアリランが歌われたが、哀しさと力強さと励ましが感じられた。声が美しく切々として、言葉は分からないのに、涙が出てきた。
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2014年07月19日

私の男

 海上保安庁で働く腐野淳悟(浅野忠信)は、奥尻島を襲った地震による津波で家族を失くした10歳の少女・花(山田望叶)を引き取った。援護に走り回り、花の引き取り手を探そうとしていた、地元の名士・大塩(藤竜也)の反対を押し切ってのことだった。

 花を一目見て決断した淳悟は、自宅に向かう車のなかで泣きじゃくる花に「今日からだ。俺はお前のもんだ」という。「お前は俺のものだ」でも、「今日から俺がお父さんだよ」でもないセリフが衝撃的だった。その言葉どおり、その後の暮らしのなかでは、花(二階堂ふみ)が二人の関係を引っ張っていったようだ。自分の家族のさみしさを口にした淳悟に、花は「キスして」といった。そして多分その直後に、まだ幼かったはずの娘と父は、男女の仲になったのだろう。

 花は普通の中学生として、友人も、彼女にほのかな恋心をもつ男の子もいるが、淳悟の前では完全な大人の女。親子として暮らしながら、二人の間には、濃密な男女の時間しかない。誰にも言えない二重生活。だが、二人には罪悪感はかけらもなく、二人の愛に絶対的な確信をもつ花は、淳悟の恋人・小町(河井青葉)を、言葉でおとしめて挑発する。「小町さんって、きれいね。美人薄命。言ってみて」。子供の残酷さと、大人の女の自信と怖さ。

 淳悟と花を取り巻く人々は、大塩やその孫である小町を含め、みな遠縁の親戚だ。堅固な地域社会があり、それが血縁と重なっている。見守りや心配がイコール監視でもある閉ざされた世界で、二人の関係は、そのなかでより閉じた世界の狂気のように思えた。

 地域の集まりで二人が大塩の家の二階にいたところに、小町が話がしたいと上がってくると、淳悟のひざに寝そべった花が、淳悟の指を自分の口に入れてはしゃいでいた。道で花が小町に話しかけたときも、花は口のなかに、淳悟から贈られた年に不似合なダイアのピアスを入れている。口と指が、二人の性の象徴のように、何度も繰り返し出てくるのだ。
 給料を前借に行った淳悟が、係の女に指の臭いを指摘されるが、それは花の唾液の臭い。それを確かめるように、淳悟は自分の指を口に入れて寝転がる。その姿に、恋人というよりむしろ、乳飲み子と母の関係に近いと思うほどの、密着と耽溺を感じた。

 地震の場面の泥の上がった安置所も、二人が暮らす生活感あふれる家の中も、閉じられた空間は細部までリアル。そこに突然幻想が降りてくるのが独特だった。
 出張に行くという淳悟に花がすねて、制服の花を淳悟が抱く場面、花の背中に血が滲み、それが広がったかと思うと二人はたちまち血まみれになり、そのままセックスし続ける。二人の愛の生々しさ、おぞましさ、どうしようもない切なさ。そして、人でなしの二人はその後、秘密を知って引き裂こうとした人たちを殺し、現実に血にまみれるのだ。

 最初の殺人は花の仕業。そのあと二人は東京に出て行くが、二人目の殺人を淳悟が冒したあと、彼は自暴自棄になり、家はごみ屋敷と化していく。「何も後悔しない」という花と、死ぬほど後悔する淳悟の間には溝ができ、花は彼のもとを去る。だがそれでも、花の心は淳悟に向かって最後まで高ぶりをやめないのだ。

 流氷の上での殺人の時、彼女は赤いマフラーをしていた。そのマフラーをいつの間にか淳悟が身につけている。結婚を決めた花に会いに行く淳悟は、赤い傘をさしている。目につく赤が、血のようにこびりつく。 

 
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ジゴロ・イン・ニューヨーク

 祖父の代からの古本屋をたたむことになったマレー(ウディ・アレン)。かかりつけの皮膚科医パーカー(シャロン・ストーン)から、レズビアンのパートナーとのプレイに男を入れたい、と相談され、「一人いるけど1000ドルかかるよ」と請け合ってしまう。頭に浮かべていたのは友人のフィオラヴァンテ(ジョン・タトゥーロ)のことで、定職につかず数か月前から花屋でバイトをしている彼を引き込もうと、必死の説得を始めるのだった。
 
 どう見てもハンサムじゃないし、パッとしないフィオラヴァンテ。ジゴロのイメージとはかけ離れた彼に、君はテクニシャンだろ、とか、ミック・ジャガーだってあの顔で大モテじゃないか、とか、もうマレーの口説きセリフがケッサク。同じく金に困っているフィオラヴァンテは、とうとう説得され、ふたりでジゴロ業に繰り出すのだが、意外にも二人の商売は大当たりとなる。

 まずマレーのポン引きの才能がすごい。フィオラヴァンテを口説いたように、シラッととぼけながら、遠回りだけど分かりやすい精力的な営業トークで、次々と裕福な客を呼び寄せる。これこそ天職。
 
 そして、フィオラヴァンテの見事なジゴロぶり。パーカーは、お試しでまず彼と二人で会いたいと言い出すが、世慣れているはずが、彼を前にした彼女はまるで高校生のよう。そんなパーカーに、フィオラヴァンテは優しく丁寧に緊張をほぐす。彼女のパートナーのセリマ(ソフィア・ベルガラ)は、たくましく激しい男を欲するが、フィオラヴァンテはそれにも応える。つまり、徹底的に相手に合わせてあげるのだ。社会的にも成功し、華のある女性たちだけど、フィオラヴァンテと接することで、知らずに抱えていたむなしさとか孤独が顔をのぞかせる。そして、それを思いっきり埋めてもらえる。
 フィオラヴァンテは特に堂々としているわけでもないが、女性にしてみれば、ジゴロというだけで謎の存在。自信にあふれて見えるかもしれないし、自分の望むものを与えてくれれば、理想の男になるのだろう。彼にしてみても、成功体験は思わぬ自信をもたらし、やっぱりこれも天職のよう。

 舞台はブルックリンだが、独特な恰好をしたユダヤ教徒がたくさん出てきた。彼の年にしては若いマレーの妻や、まだ幼い子供たちは黒人だし、人種のるつぼという感じ。
  
 高名なラビの未亡人アヴィガル(ヴァネッサ・パラディ)。ユダヤ教のなかにも厳格な宗派があって、彼女は厳しい戒律を守って生活をしてる。マレーは悩める彼女に、例の遠回しの営業をかけて、セラピーが必要だといってフィオラヴァンテに引き合わせる。彼は彼女を気遣って、背中のマッサージをするだけだが、久しぶりに体に触れられたアヴィガルは静かに涙を流した。そして、彼女はこれまでの抑圧から吹っ切れたように、違う世界への好奇心や、自分を大切にする気持ちに動かされていく。

 アヴィカルに好意をもっている警官が、彼女の行動をいぶかってマレーにたどり着き、彼と子供たちの草野球を監視する場面もおかしかった。だが、マレーはユダヤ教の規律違反で裁かれることに。ポン引きは石打ちの刑だとか。そこに、アヴィガルが現れる。一番罰せられるべき当人を除いて議論していたのは、多分彼女がみんなのアイドルだから。彼女の真のこもった告白で、場が急にしぼんでしまったのも、女性を大事にしていた映画の続きのようで、微笑ましくてほっとした。 
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2014年07月13日

みつばちの大地

 代々養蜂家だったとう監督が、世界中で起きているミツバチの大量死の原因を探ろうと、各地の養蜂家や研究者を尋ねて旅したドキュメンタリー。

 ミツバチは、驚くほど賢い生き物だった。自分の巣の位置を覚え、蜜源に行くときには、予測や意思決定を行っている。偵察に出た蜂は、場所や距離をダンスで仲間に伝える。一匹一匹が命令なしに自分の役割を果たす。研究者は、蜂の群れ全体が、一つの感情をもった生き物のようだ、と話す。

 複雑な巣の中でうごめく無数のミツバチ。幼虫やさなぎ。カメラはミツバチたちの生態をくまなく追っていき、空中で行われる女王蜂とオス蜂の結婚飛行までを映し出す。黄金に輝く群れの姿は神々しいほど。

 アインシュタインは、「ミツバチが死滅すれば、その数年後に人類が滅びる」と言ったそうだ。私たちが口にしている食物の三分の一は、ミツバチが受粉させているから。そのミツバチたちに危機が訪れている。

 スイスの山岳地帯で、防護服も手袋もせずに巣を箱に入れる養蜂家。
 一方、アメリカ全土の農地を移動し、ミツバチを受粉のために働かせて莫大な収益を得ている養蜂家。散布される農薬をミツバチたちが浴びてしまうのは、仕方のないことだという。長距離移動のストレス。蜜と交換に与えられるエサは、砂糖水だ。経済優先で飼育されるミツバチたちは、抗生物質なしではもはや生きられない。

 女王蜂を育て、世界58カ国に輸出しているオーストラリアの養蜂家。育種用の幼虫を、人工的に作った女王蜂の巣房に入れてコロニーに返し、働き蜂になるはずの幼虫を女王蜂として育てさせる。賢い蜂たちのだまし方は、無機質で寒々しい。

 中国では、文化大革命時に毛沢東の命令で、穀物を荒らすスズメが大量処分されたが、そのせいで昆虫が異常発生し、それを退治するために大量の殺虫剤がまかれ、そのため今もミツバチが存在しない地方がある。ミツバチの代わりに、人間が受粉させているのは何だか滑稽だ。

 農薬にまみれて力尽きるミツバチ。ダニにやられて羽をなくすミツバチ。蜂蜜を絞るローラーの下でつぶされるミツバチたち。短い命を懸命に生きる彼らの、無残な姿が痛ましかった。
 「彼らは単に、化学殺虫剤や抗生物質や近親交配やストレスで死ぬのではなく、それらの総和として死ぬのだ」というナレーションがショッキングだった。彼らは私たちの文明のせいで死に追いやられているのだ。近々異変がわたしたちに及ぶのだろうか。
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2014年07月12日

私の、息子

 老境に差し掛かった女が、自分を無視し連絡をくれない息子や、彼が一緒に暮らす恋人のだらしなさを、延々と愚痴っている。孤独で偏屈な、人生に打ち捨てられた身かと思いきや、次には、貴族の世界かと思うような、彼女の華麗な誕生日パーティーが映る。コルネリアは上流階級の人間で、政界の要人や芸術家など、驚くような人脈を持ち、しかも有閑マダムではなく、舞台を手掛ける建築家。その忙しい女が、全力で息子バルブに執着しているのだ。職のない息子に家を与えるだけで済まず、家政婦から家の様子を聞き出したりも。そんな中、バルブが自動車事故で、貧しい家の少年を殺してしまったという知らせが届いた。

 コルネリアは、息子を救いたい一心で、人脈を利用し、警察の陣術調書の提出や病院の検査にまで介入する。コルネリアの上層部とのコネが、警官の抵抗を奪うだけでなく、その警官が部下の目の前で、あからさまな取引を持ちかける場面はショッキングだ。バルブが追い越した車の運転手に証言を変えてもらうためにも、コルネリアは条件を引き出そうとする。ルーマニア映画だが、古い社会を観ているような感じだった。

 バルブは家に戻ってきて、母に傷の手当とマッサージをしてもらう。村人に殴られ、事故のショックで打ちのめされた彼は、子供の時のように母の保護にもぐり込んだのだろう。大人の男が、おとなしく母親に体を触らせる気味悪さ。だが、普段の彼は、母に暴言を吐き、物を投げつけたりもする。支配から逃れたいのにできない彼は、そうやっていら立ち、しかも、自分が起こした事件について、母の助言を拒否しながら、自分では決して動こうとはしない。原題は「胎児のポーズ」だが、まさにバルブの姿そのもの。一方、コルネリアは、自分が息子の人生を破壊していることを、全然理解していないのだ。

 コルネリアは、息子を説得してもらおうと彼の恋人カルメンを尋ねるが、そこで、子供を作ることに対する、息子の異常なまでの恐れやを知る。エゴイズムや潔癖症。男としての奇妙さ。コルネリアの変化は、多分カルメンとの会話からようやく始まったのだと思う。

 この映画で重要な役をしているのは、電話だと思う。
 事故の直後、コルネリアは事を有利に運ぼうと上層部の指示を仰ぎ続け、ずっと携帯を耳に当てている。
 彼女がバルブの家に忍び込んだときに人が来て、思わず居留守を使ったとき、不意に携帯が鳴り出した。その同じ音が、バルブとカルメンを前に話している時に鳴り響く。行動的で隙のないコルネリアが、不用意に鳴る音に弱みをさらされているようだ。

 そして、被害者の家族を見舞う場面。ここでも自分の息子のことばかり話すコルネリア。だが、その母心は、優しい被害者の母を動かした。彼女は、死んだ息子が最後にかけてきた携帯を取り出し、最後のやり取りのことを聞かせて涙する。それは普段の何気ない会話だ。コルネリアがいつも待っているのも、バルブからの電話だった。ここからのコルネリアの心の吐露は、胸を打たれた。ここにいるのは、毛皮に身を包んだ高飛車な女ではなく、被害者と同じ黒づくめの、打ちひしがれた孤独な母親。「時間をおきます」というコルネリアの言葉には、バルブが言った「自分が電話をするまで電話をしないで待ってくれ」という言葉が響いている。先回りばかりの彼女は、初めて相手の心情に合わそうとしていた。新しい出発がほの見える、美しいラストだった。 
 
 
 
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2014年06月27日

人生はマラソンだ!

 ロッテルダムにある小さな自動車修理工場。ギーアとレオ、ニコ、キースの中年オヤジたちが、ビールやケーキを味わいながらカードゲームをする横で、若いユースが一人働いている。やる気のないくせに余裕たっぷりで、ふざけてばかりのオヤジたちの口からは、エジプト人であるユースに対するあからさまな差別が飛び出す。誰にも悪意はないが、移民に対する意識はこれが現実なのだろう。この映画はコメディだけど、はじめからドキュメンタリーのような手触りだった。

 一見どこまでものんきな彼らだが、その生活は実は複雑。
 ギーアは、反抗期の息子に手を焼いているし、職場では好きに言いたい放題のキースは、厳格なキリスト教徒の妻にまったく頭が上がらない。レオは、若い妻の育児放棄と浮気疑惑に悩むが、実は彼女は元娼婦で、彼は相手の子供ごと家に連れて帰ってきたらしい。女性へのアプローチに失敗ばかりのニコは、イケメンの靴店員に突然胸をときめかす。

 そして、いいかっこしいのギーアが、現実から目をそむけて隠していた、4万ユーロ近い税金の滞納が発覚する。工場と生活の危機に頭をかかえた3人は、元ランナーだったユースの話から、スポンサーを見つけて地元のマラソンに出場しするというアイデアを思いつく。
 能天気な彼らのスポンサー探しはケッサクだけど、誰にも相手にされなかったあげく、完走すれば税金の肩代わりを頼む代わりに、失敗すれば工場を譲るという条件で交渉が成立。

 少し走っただけで息切れでへばる彼らだが、ユースの指導で走れるようになっていく。だが、試しに出ることになったアムステルダムマラソンに遅刻するや、またもダメオヤジぶりを発揮。吸い込まれて入っていく飾り窓も、オランダのリアルだ。

 大会にこぎつけるまでの、越さねばならない数々の山。彼らが本気モードでマラソンに打ち込むようになるにつれ、あきれる家族との摩擦やすれ違いが起こっていく。ギーアは末期のガンが判明するが、家族にも秘密にする。キースは妻の反対に遭い、大会間近で離脱を宣言。
 だが、目標に向かってスイッチを入れた彼らには自信が備わり、それぞれの関係を修復したり決別したりする。そして、家族に、彼らに対するリスペクトが生まれていくのだった。
 4人の関係も変化し、笑いものだったユースは立派なコーチで、4人は今や彼のもとに団結。ユース自身も、昔の情熱を思い出していく。

 ギーアが、倒れそうになりながら、工場のためだ、家族のためだ、と言いながら走る姿は胸が詰まった。ラストランナーとして、警備隊のバイクを従えて走るだけでも、充分広告の役目を果たしていたと思う。
 ハッピーエンドだけど、悲しみもいっぱい。でもじめじめはしていない。とても面白かったけど、とにかくリアルな感じだった。

 
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2014年06月21日

チョコレートドーナツ

 1979年のカリフォルニア州ウエストハリウッド。ドラッグクイーンのレティ・ドナテロ(アラン・カミング)が踊る店の片隅で、彼を見つめるポール(ギャレット・ディラハント)。二人はすぐに恋に落ちるが、ポールが残した電話番号に翌日ルティが掛けても、ポールは出ない。ルティが相談のためにポールの働く法律事務所に訪れた時も、ポールの対応はすげなかった。車中にいる二人が、突然警官に銃を突きつけられる場面があったが、当時のアメリカでは、同性愛は犯罪扱いだったのだ。

 ルティがポールが頼ったのは、自分の住むアパートの隣の部屋で、少年マルコ(アイザック・レイヴァ)が一人取り残されていたから。母親が麻薬所持で逮捕されたため、家庭局から施設送りになり、そこから逃げ出して街をさまよっているマルコを見つけたルティは、彼を引き取りたいと願う。

 家賃の支払いにも困るその日暮らしの中、奥深い優しい眼差しのルティ。率直すぎる物言いやエキセントリックさは、彼が常に差別を感じ、それと闘っているから。夢を心に閉ざし、孤独だった彼は、惹かれあう相手ポールに出会った。その夢見るような幸せ。同じようにルティは、誰にも愛されないダウン症のマルコを、一目で好きになり、守りたいと思うのだった。
 大音響の暗い部屋で一人ぼっちの、穏やかで、笑顔の美しいマルコ。彼も、安心できる人と場所を求めていた。ルティはマルコに、少年が主人公のハッピーエンドのお話を聞かせてあげる。慈しみ、大事にし、愛情を掛け合って生きる日常のいとしさ。三人にとって、互いとの出会いと存在は、かけがえのないものだった。
 刑務所にいる母親からマルコの監護権を受け、マルコとの暮らしのためにルティとポールは裁判を闘う。偏見を恐れて初めはいとこ同士と言っていたふたりだが、ポールの職場のパーティーに呼ばれたことから、二人の関係が上司に知れるや、ポールは職場を解雇。同時に裁判の焦点は、二人の関係がいかに不適切か、になり、偏見と憎悪に満ちた質問が繰り返される。そこには、一人の少年の幸せは抜け落ちている。俊腕の弁護士と出会い、法の欠陥を突いて控訴に持ち込むも、勝てるはずだった裁判で、二人はポールの元上司に思わぬ裏をかかれてしまう。
 ルティは勇気があり、何物も恐れなかった。ポールには法律家としての知識を駆使することができ、審議での何度もの危機を乗り越えた。苦しい裁判を闘うのに、彼らほど強力なチームはなかったろうに。

 映画の冒頭、人形を抱いた少年が、暗い夜の街をさまよう場面が映るが、ラスト、それがいつのことだったかが分かる。彼は、自分のいた家を、ルティとポールを探していたはずだ。あまりにも悲しい結末。ルティの歌う「アイシャルビーリリースト」にも涙が流れた。
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2014年05月25日

アナと雪の女王

 アレンデール王国の王女エルサとアナ。二人は大の仲良しで、姉のエルサは雪や氷を作り出す不思議な力でアナを喜ばせ、夢中に遊んでいたが、ある時エルサはその力で誤ってアナを傷つけてしまう。国王はエルサの力を秘密にし、エルサは妹を避けて部屋に閉じこもり、そのまま年月が過ぎてしまうのだろった。

 王と王妃が乗った船が沈没し、エルサが王位を継ぐが、その戴冠式の日、出会ったばかりの男と結婚すると言い出したアナに怒ったエルサは、隠していた力を爆発させて国中を凍らせてしまい、思わず城から出て行ってしまう。

 この後、山奥に逃れたエルサが、このままの自分でいいと高らかに歌う場面。予告編で観て、この映画を観たいと思った場面だが、ものすごい高揚感があって感動的だった。世間にも妹にも隠していた力。年々強くなり、コントロールの難しい、悲しみと恐れの元だった力。それを今やっと肯定できる。みるみるうちに氷の宮殿を作り上げたエルサは、きらびやかに変身して、雪の女王として君臨する。

 自分をモンスターだと恐れる世間から逃れて山へ行き、そこで力を解き放つ、というのは、「シザー・ハンズ」を連想したが、「シザー・ハンズ」ではそれが結末で、主人公を逃がしたのは恋人。この映画では、エルサの逃亡が、その後のアナの冒険を呼ぶことに。
 変身したエルサだが、彼女がどんなにこのままでいいとか、自分を好きになろうとかと歌っても、それは世間から遠ざかってしか実現しないこと。彼女は凍ってしまった自分の国から目をそむけ、尋ねてきたアナと話すことも拒否する。つまり恐れを抱えたままの状態は変わらないわけで、そのために、あの歌の解放感は、感動しつつも何だか違和感が。

 最初の事故のあと、アナは助けてくれたトロールに記憶を消され、そのためエルサがなぜ自分を避け続けるのかが分からなかった。トロールはエルサに力をコントロールして隠すように言い、そのためエルサは孤独を深める。一方、トロールはアナとクリストフをくっつけようとするし、何ともおせっかいだ。

 一番愛すべきキャラクターは、オラフ。幼いころエルサがアナのために作った雪だるまで、二人の絆の象徴。でも、最後のクライマックスで、「愛が凍った心を溶かしたんだ」のセリフはおせっかい。テーマをそのままダイレクトに言葉で言ってしまうのは、最近の映画に多いように思うけど、何だか芸がないような気がするんだけどなあ。 
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2014年05月16日

ある過去の行方

 空港で待ち合わせた男女が、女の家へ車で向かう。男が子供たちに会いに来るのは、女の側からはやっとかなえられた約束のようで、初めは二人が恋人で、男がこの関係に逡巡しているせいで女が不機嫌なのだろうか、と思った。
 だが、男が女の家に着き、三人のこどもたちと接して、騒動でひっくり返っている家の中を収拾していくうちに、アーマド(アリ・モッサファ)がマリー=アンヌ(ベレニス・ベジョ)の前夫で、離婚協議のためにイランから戻ってきたこと、マリーはここで今は恋人サミール(タハール・ラヒム)と暮らし初めていること、5歳のファッドはサミールの息子で、リュシー(ポリーヌ・ビュルレ)とレアはアーマドより前にマリーの夫だった男の娘だということ分かっていく。
 複雑な人間関係や立ち位置、登場人物の名前さえが、物語が進むにつれてゆっくりと明かされるのは、この監督の特徴だろう。

 マリー=アンヌは、リュシーの反抗が意味が分からないとアーマドに話し、彼女と話し合ってほしいと頼む。普通なら、新しい父親に反発があるのだと気付くはずだし、リュシーも初めはそういうが、実はセミールには自殺未遂のせいで植物状態になったままの妻がいて、それは母親マリー=アンヌのせいだとリュシーが告白したことで、自殺の真の理由をめぐって、登場人物たちの人間像と、彼らの隠す思いがあぶりだされていくのだ。

 アーマドが先に家にいて、ごたごたを収拾するせいで、後から帰ってきたセミールが闖入者に見える。リュシーが彼を嫌っていること、彼が幼いファッドに非常に厳しく振る舞うことから、彼に危険な面があるように思えた。それに、自分の無実を明白だと言い放ち、エキセントリックで無自覚な人物に見えていたマリー=アンヌ。だが、真実に近づくにつれ、彼らは事件に振り回された者で、生活者や親として普通の懸命な姿が見えてくる。

 観客が発見していく彼らの姿。一方で、登場人物たちは、それぞれ観察し合い、その視線を通して、彼らが向き合っている相手の、隠された感情が明らかにされていく。
 マリー=アンヌはサミールが妻をまだ愛していることを確認するし、サミールはマリー=アンヌが本当はアーマドが好きなことを見抜く。そして、アーマドは、マリー=アンヌが自分を家に呼んだのは、復讐だったのだ、と気付くのだ。
 新しい関係が必要だったからといって、長い情愛が消えてしまったわけではない。同じ相手に対して、愛情と憎しみが同居する。どうしようもない思いの複雑さ、繊細さ。
 
 マリー=アンヌとサミールの未来。マリーのお腹の赤ん坊の未来。リュシーと三人の子供を含む家族の未来。それらは、 過去の事件に引きずられている。混迷する彼ら。だが、彼らの運命をかき乱す原因は、場面にほとんど出てこない、サミールの妻と、従業員のナイマなのだ。本当のことにたどり着けば、ささいな、どこからが出発点なのかも分からない、妄想かも知れない小さな確執。

 アーマドがなぜ4年前に帰国してしまったのかは明かされない。なぜサミールの妻は鬱病になったのか。リュシーの父親はどんな人物なのか。同様に、彼らのこれからもはっきりとは分からない。ただ、彼らの選択も感情も、深く心に訴えてきた。 
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