2015年12月17日

母と暮らせば

 1945年8月9日の長崎。11時9分に原爆が投下されるまでの間に、21歳の浩二(二宮和也)は、母伸子(吉永小百合)に声をかけて玄関を出、人で鈴なりのバスに乗り、医科大の授業に出た。一日の始まりの一コマ一コマが、その後破壊された何万の人々の、それまでの普通の生活を象徴していると思う。インク瓶が一瞬で溶けて、爆風と轟音が響く場面が恐ろしかった。

 3年後、浩二の遺体や遺品を探し続けた伸子は、ようやく彼の生存をあきらめることを決心するが、その時、家の中で人の気配に振り返った彼女は、学生服の浩二の姿を見るのだった。

 陽気でおしゃべりな昔のままの浩二。彼は伸子の妄想ではなく、レコードに涙を落としたり、彼一人が写る場面も多く、亡霊として描かれる。そして今も、かつての恋人町子(黒木華)を愛している。
 町子も浩二を忘れられず、結婚前に浩二が死んだにもかかわらず、彼の妻として生きていこうと思っている。伸子は、町子の将来を案じて、彼女に浩二を忘れるよう、浩二には町子の自由を認めるように諭すが、二人ともから強い拒否を受ける。もし原爆が引き裂かなければ実っていただろう二人の思いが、本当に切なかった。

 戦後3年経っても、まだまだ傷深く困難な世の中。充分な食糧がなく、伸子のもとには上海のおじさん(加藤健一)が闇物資を運んでくる。町子は父親の消息を探す教え子に付き添って、復員局で悲しい知らせを聞く。

 そんななか、伸子の仕事が助産婦なのは、これから再生していく社会の希望を表しているのだろう。だが、伸子の夫は結核で死んでいて、浩二を失うばかりか、長男もビルマで戦死しているのだ。たった一人になっ彼女は、町子と互いに支え合いながら、義母と娘のように寄り添って、浩二のいない時間を生き抜いた。町子までがいなくなる寂しさよりも、彼女の幸せを願う伸子の優しさ、芯の強さ。

 町子の気持ちとは裏腹に、伸子の願うとおり、若い町子には新しい出会いが起こる。親しい友人が死に、その母になじられて、自分が生き残ったことに罪悪感を抱くエピソードは、「父と暮らせば」と同じだ。苦しみながらも伸子に背中を押された町子は、自分の人生をもう一度生きようとする。そして、初めは町子が自分から離れて行くことに激しく動揺した浩二も、次第に彼女の幸せを願うようになっていく。死んでしまった何万人もの人々は、生き残った人々の幸せを願っているはずだ、という伸子の言葉に胸を打たれた。

 浩二は、町子を深く愛しているものの、彼女のもとにではなく、母のもとに現れ、母の言葉を通してしか町子の様子を知ることができない。彼の姿を見ることができるのも、母だけだ。恋人同士の悲しい別れの物語である以上に、母と息子の絆の物語なのだろう。
 浩二が納得しているといえ、町子の婚約者黒田(浅野忠信)が登場する場面は、奪われた人生の無念が迫ってくる感じがした。伸子は突然、なぜ浩二ではなく町子が幸せになるのか、と怒りだす。矛先が町子の恋人に向かわないのが不思議だった。嫉妬が、よく知らない相手ではなく、よく知っている身近な人物に向かってしまうのは悲しい。

 そして、町子が去った夜、原爆病に侵されていた伸子は、たった一人で死んでしまう。痛ましさにまた泣いた。だが、彼女には永遠に息子といられるという救いが待っている。そして、彼とともに死んだ何万人もの人々が、二人を待つのだ。戦後を生きた人たちの思いと、死んだ声なき人々の思いが、切々と迫ってくるようだった。  
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2015年11月20日

尚衣院-サンイウォン-

 王室の衣服を作り管理する尚衣院。幼い頃からそこに勤めるチョ・ドルソク(ハン・ソッキュ)は、厳しい修行に耐えて頭角を現し、三代の王に仕えてきた。今や尚衣院長として新王にも気に入られ、貴族に加えられる日も近かった。宮殿に暮らす者にとって、衣服は規律と伝統を表し、地位の象徴であり、ドルソクは決まりに沿って厳格に仕事をこなしていた。

 一方、キーセンの宿にいりびたる若い服職人のイ・ゴンジン(コ・ス)は、華やかさや着心地を追求しながら、自由な発想で女たちの服を作っていた。たまたま官吏に服の直しを頼まれたゴンジンは、長い袖や裾を切って、活動的で見栄えよく改良してみせる。

 ある時、王妃つきの女官の失敗で、儀式に使う王の服が傷つけられ、翌日までに作り直さなければならなくなった。ドルソクは王の命令なしの作業を口実に断るが、ゴンジンはできると即答し、着心地よく作り上げて王の満足を得るのだった。 

 自分の思うままに好きな服を作っていたゴンジンには、もとよりドルソクに対抗する気持ちも、出世欲もなかった。彼が王妃の服作りに執着したのは、王妃の美しさに惹かれ、彼女の孤独に心を痛めたから。自分の才能のありったけで王妃を支えたいという、彼女への恋心がすべてだった。

 ゴンジンはドルソクを尊敬し、二人の間には、同じ仕事で苦労してきた者としての同志のような感情や、親子や子弟のような情さえ通う。だが、斬新なデザインを次々と生み出すゴンジンの才能や、彼の服への人々の人気、さらには王がゴンジンに目をかけ始めたことが、ドルソクの嫉妬や怒りを掻き立てていく。そして、自分が守ってきた仕事への誇りと自負ゆえに、思わぬ一線を越えてしまうのだ。

 二人をめぐる宮廷の人間もようも複雑。先王である兄の死去によって王となった今も、兄に抑圧された記憶に苦しむ新王(ユ・ヨンソク)。元々王妃(パク・シネ)に惹かれていたのに、彼女が兄の花嫁候補の一人で、兄から譲られた女だという理由で、王妃を遠ざける。
 世継ぎができないことをいいことに、自分の娘を王に近づける重臣。王は王妃の廃位をめぐって臣下と対立する。王の気を引き、王妃にとって代わろうとする娘。

 権力と愛情をめぐっての女同士の戦い。儀式の場では、彼女たちの衣装が大きなパワーを発揮して、王の気持ちを引きつけたり、地位や威厳を思い知らせて、周囲を圧倒したりする。王妃にとっては、自信を取り戻し、王との関係に希望を灯すシーンとなったはずだった。
 なめらかな絹地のボリュームや、それにぎっしりと飾られた豪華な刺繍。目の覚めるような鮮やかな色彩。絢爛豪華な衣装にため息が出た。 
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2015年11月15日

顔のないヒトラーたち

 1958年のドイツ、フランクフルト。地方検察の若い検事ヨハン・ランドマンは、ジャーナリストのトーマス・グニルカから、元親衛隊だったシュルツが今も教師として働いていることを知らされた。同僚の検事たちは皆無関心。検察官の定例会議で報告すると、文部省に確認すると約束され、その後シュツルが免職になったと知らされるものの、実際にはシュツツは何事もなく学校に居続けていた。検事総長のバウワーに呼び出されたランドマンは、殺人の確固たる証拠なしには、戦争犯罪者を裁くことはできないと教えられる。

 ナチの犯罪と誠実に向き合ってきたドイツ。この国の戦争犯罪訴追が、戦後すぐではなかったことや、1958年当時には、国民の多くがアウシュビッツを知らなかったことは、衝撃だった。戦後のドイツは、アウデナー大統領のもと、経済復興にやっきで、重い過去にはふたをして、忘れ去ろうとしていたのだ。当時の政府機関には元ナチ党員が大勢いたままだった。

 ヨハンが目にした証拠の発端は、アウシュビッツからの生還者シモンが収容所から持ち帰った、実名入りの親衛隊員の名簿。バウワーから調査の指揮を任されたヨハンは、ナチの残した膨大な兵士の記録を辿る一方、イスラエルの団体の協力を得て、ようやく最初の被害の証言者に辿りつく。
 だが、アウシュビッツのことを何も知らなかったヨハンは、非人間的な状況下での大量殺人のために、殺された者の名前や、目撃した日時などの質問が意味をなさないことに、初めは気付かず、証言者に無知を驚かれる。そして、悲惨な体験にただ耳を傾けることにより、アウシュビッツでのおぞましい犯罪の数々を知ることになるのだった。

 点呼の時に顔を見たというだけで、相手の眼をつぶした者。相手が死ぬまでブーツで殴り続けた者。リンゴをもっていた少年の足をつかんで、壁に頭から打ちつけた者。それをやった男は、その後りんごを平然と食べた。帽子を取って投げ、それを取りに行った背中を撃った者。それはよく行われたことで、「逃亡による銃撃」として処理されたという。それらは、兵士として上官の命令に従った、という弁解が通じない、恣意的なものだ。そんな理不尽で卑劣で凶暴な暴力が、収容所での日常だった。

 もちろん、収容所内で権力をもっていた者たちによる犯罪もある。アウシュビッツでは、医師による生体実験が繰り返し行われており、双子の娘を医師メンゲルに惨殺されたシモンの証言は、悪魔の所業としか思えない、身の毛もよだつ恐ろしいものだ。

 米軍のドキュメンタリーセンターには、60万人ものファイルがあり、そのうちアウシュビッツで働いていた8000人全員が容疑者と考えられた。ヨハンは、山のような文書と格闘し、ドイツ中の電話帳をたどって、元親衛隊員らの住所を突き止めていく一方、アウシュビッツの悪の象徴であるメンゲルの行方を追って行く。
 警察や他の関係機関が、及び腰ですばやい行動を取らず、上司や同僚の反発もあるなか、ヨハンは、検事総長の導きや、グルニカの協力により、果敢に粘り強く真実に迫っていく。イスラエルの諜報機関モサドもからみ、サスペンスのような緊迫感だった。

 そして、ついに1963年、ホロコーストに関わった者をドイツ人自身で裁く、フランクフルト・アウシュビッツ裁判が始まり、アウシュビッツで何が行われていたのかが、広く知られることとなった。

 ヨハンたちの努力に感銘を受けるとともに、ドイツと日本の大きな違いを、改めて考えさせられた。日本が海外で行った犯罪は、多くが闇の中で、731部隊は何も罪を問われていない。日本人自身に向けられた犯罪も、小林多喜二を拷問死させた特高たちは、それが誰だったかさえ知られていない。暗澹とした気持ちが残る。 
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2015年11月11日

マルガリータに乾杯!

 デリーの街を走るバン。冗談を言い合う家族の中で、身をよじるように笑う若いライラの輝くような笑顔が素敵。車が止まると、中から車いすが降ろされる。ライラは身体障害者なのだ。
 彼女はデリー大学に通う学生だが、校内の階段を上がるためには車いすごとの介助が必要だし、会話も、息切れしながら短いフレーズしか話せない。静かにしなければいけない図書館でも、声の抑制が難しい。でも、ライラはそんな不自由はものともせずに、ラインやスカイプでチャットをしたり、明晰な頭脳で路上のチェスでも無敵だ。幸せいっぱいのキラキラオーラに引きつけられた。そして、年頃の彼女は恋に憧れていた。

 同じく障害をもつ青年ドゥルヴとは友人だけど、彼は彼女が好き。パソコンでエッチな場面に刺激を受けたライラは、自分からドゥルヴに触れてキスをする。ところが、大学のバンドのイケメンボーカルのニムを見ると、たちまち彼に恋をして、自作の歌詞をほめられると、自分への好意と勘違いしてしまう。頭がいいのに早合点のライラ。コンテストで優勝するも、障害者の作品だったから、と評され傷ついたライラは、同時に失恋も味わって、大学が嫌になってしまう。

 インドは男性優位の社会かと思っていたが、ライラの母親は夫に代わって車を運転するし、夫の反対を押し切って、娘の新天地を開くために、ニューヨークへの留学を強力に援護。夫をおいて二人でアメリカにやって来る。

 そこでライラは、パキスタンとバングラディッシュの両親をもつ美しいハヌムと出会うが、騒然としたデモで叫んでいた彼女が、白い杖をもっていた場面は驚いた。ハヌムも、盲目なのに化粧もオシャレも自在な自由な人。彼女もライラに負けず、独特の存在感で魅力的。
 ハヌムは実はレズビアンで、ある時ライラはふと彼女の誘惑に応える。予想外の展開にびっくりだ。ライラはハヌムに惹かれていたと思うけど、強い好奇心と飛び切りの楽天性が、彼女を前に進めているのかもしれない。ともあれ、二人は本当の恋人に。

 一方、面食いのライラは、授業の記述の介助をハンサムなジャレードに申し込まれると、本当は全然必要ないのに、断らずに助けてもらう。彼が恋人でない女の子とディープキスするのを見てけげんに思うが、気楽に性を楽しむジャレードの姿も、彼女には新しい世界だったろう。そして、トイレ介助の時、二人は自然に体を合わせてしまう。ほんとの恋じゃなくても、これもアリ。ライラにはすべてがチャレンジのよう。

 恋人と暮らすための母親からの自立。浮気を告白したために、恋人とのいさかいと別れ。自分のセクシュアリティを告白して、母親と対立。自分らしくあろうと悩むライラの姿は、正直で力強くて、ハラハラさせられるけど、どこまでもさわやか。自分を信じて愛してるラストに、感動がこみ上げた。
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2015年11月03日

第31回 ワンコリアフェスティバル

 1日、大阪城野外音楽堂で、「第31回 ワンコリアフェスティバル」を聴きに行った。南北に分断された二つの国の統一と、差別のない平等な社会を願って、多彩な出演者が集っていた。

 トップバッターのよしだよしこは、柔らかい静かな声。繊細な詞の反戦歌のあと、アメリカ公民権運動のきっかけとなったローザ・パークスについて語るように歌い、こんなプロテストソングがあるんだ、と思った。

 同じく衝撃的だったのは、中川五郎。関東大震災の翌日に烏山神社の近くで起こった、鉄道修復のため、土工を積んで都心に向かっていたトラックを、村の自警団が襲った朝鮮人殺傷事件のことを歌にしていた。烏山神社にかつて12本植えられ、そのうち4本が今も残るクスノキは、殺された朝鮮人を弔うためではなく、連行された加害者たちが、無事に警察署から戻ってきたことを祝って植えられたものだという。

 ジンタらムータは、クラリネットや太鼓で賑やかなチンドンキャラバン。「不屈の魂」とビクトル・ハラの「平和に生きる権利」。反原発デモを追ったドキュメンタリー「首相官邸の前で」のエンディングを担当したそうで、それも演奏してくれた。

 朝鮮の民族楽器や舞踏ももちろんあって、朴根鐘(パク・クンジョン)と仲間たちが、カヤグンのほか、弓で弾くアジェンや短い棒のようなもので弾くコムンゴとかの変わった琴を演奏。
 ヨン・ミンチによるチャンゴは、超絶技巧のジャズのような演奏だった。
 大阪朝鮮歌舞団の太鼓の舞は、一指乱れず華やかで美しかった。

 それに、アイヌ文化継承者のToyToyが、大きな剣のような形の弦楽器トンコリを演奏。三線や朝鮮民族楽器との即興も面白かった。

 いろんなルーツの人がいるなあ、と思ったのは、寿という沖縄音楽のボーカルのナビィが、長い音の続く覚えにくい沖縄言葉を教えてくれているのに、実は広島出身だったこと。彼女が、知っている限りの韓国語を使っているのが面白かった。

 ソウルクライ&ギヒョンという韓国の二人組は、韓国ドラマ「プロデューサー」の歌を歌っている人気者だそうで、すごくきれいなデュエット。今をときめく歌声はほんとに華がある。

 趙さんは、司会もこなしながら、おなじみの「アホダラ経」と「ひでり」。長引いたリハーサルでも舞台にいたので、開演前から目立っていた。

 たくさんの魅力的な人たちを見つけた日だったけど、一番強烈だったのは、ラストに出てきた朴保(パク・ポウ)。初めは普通な感じに思えたけど、歌が進むにつれ、ダミ声なのによく通る声が輝き出す。観客が舞台の下で踊り出して、アンコールの嵐。終わりがないように思えるほどだった。

 1部と2部があって、12時半に始まったのに、終わったのは5時を過ぎてた。でも全然長くなく、楽しくて贅沢な時間だった。
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2015年10月11日

僕らの家路

 弟マヌエルと二人きりの朝、ジャックは朝食の用意をしてから着替えを取り込み、弟を起こして学校に急ぐ。ピクニックに行っても、母親は友人と続きに遊びに行って、兄弟二人で夜道を帰らなければいけない。真夜中、お腹を空かせたジャックが、母が恋人といる部屋に行くと、母は裸のままで彼にシリアルを食べさせる。子どもを可愛がりながらも、自分の楽しみに夢中になっている若い彼女は、母親というより、青春まっただ中の奔放な姉のようだ。

 そんなある時、ジャックが用意した風呂でマヌエルが火傷をし、そのためにジャックが養護施設に預けられることに。ジャックはそこで上級生ダニーロにいじめられ、孤独に耐えながら母に会える日を待つが、ようやくやってきた休みの日、母から、仕事のために迎えは3日後だと告げられる。同じく施設に残されていたダニーロにまたもいじめられ、友人が貸してくれた双眼鏡を池に投げられたジャックは、思わずダニーロを殴り倒し、ひたすら家を目指して歩き出した。

 そこからどれだけ歩き続けただろう。フェンスを越え、地下の駐車場で眠り、道路に沿って歩き、なけなしのお金で電話をしても、母の電話はつながらない。ようやく家にたどり着いても、下駄箱にあるはずの鍵もない。マヌエルの預け先まで行ったジャックは、今度は二人で母を探しに行くのだった。

 母がよく立ち寄る居酒屋、それから煙がもうもうのナイトクラブ。どれも子供が行くような場所ではない。小さな二人が人ごみをかき分けても誰も気付かず、つまみ出されもしない代わりに、助けも得られない。暗い夜道を歩いても、彼らは全くの孤独だ。
 大人たちの反応は、無関心か冷たいか。母親の知り合いはジャックの姿を見ても驚かず、まるでジャックが大人であるかのようだ。マヌエルの預け先は、女は迷惑を口にし、男は無言で荷物を放り出す。駐車場ではどなられる。母の元恋人は何とか助けてくれるものの、結局彼らの孤独や心情はわかっていない。

 だが、そんな状況を、ジャックは泣かずに、疲れて眠ってしまうマヌエルを起こしながら、力を振り絞って進んでいく。何でも一人でこなしてきたジャックは、初めから大人たちの助けなど期待していないのかもしれない。ジャックの身の上はハラハラさせられるし胸が痛むが、彼はちっともみじめには見えない。それどころか、しっかりとして誇り高い。彼は途中何度も何度も電話をしては留守電を入れ、戻ってくるたびにメモを残す。そのたびに失望し、苛立ちが募っていく。その切なさ、心もとなさ。だが同時に、母を求める子供の姿が、逆に行方の知れない母を案じているように見えてくる。彼を支えているのは、母に愛されているという確信。だから、母の元恋人に、「君は母親に捨てられたんだ」と言われた時、猛然と反発する。

 ところが、窓に灯りを見つけやっとの思いで再会した母は、思い切り愛情を示してはくれるものの、何ともこともなげ。新しい恋人とのことで夢見がちな彼女は、ジャックの残した留守電にも、メモにも気付いていないのだ。そして以前と同じ朝を迎えたジャックは、迷わず自分の選択をする。意外で、驚くほどあっけない幕切れ。彼の前には、これからたくさんのことがあるはず。だが、彼ならたくましく生きていくかもしれない。そして、その選択が間違っていない気がしてくる。
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2015年10月05日

京都ピースナインコンサート

 一昨日、京都文化センターで、京都ピースナインコンサートを聴きに行った。昨年12月に亡くなった笠木透さんの追悼コンサートで、2005年から始まったコンサートのファイナルだった。

 トップバッターは趙さんのアホンダラ経。安保法制の成立を受けて、内容がより過激になっていて、その分わかりやすくて面白かった。
 次は野田淳子さんが、エスペラント語で「死んだ男の残したものは」。
 三人目は高石ともや。笠木さんはチリの軍事クーデターで殺されたビクトル・ハラと同い年で、彼の分まで二人分の人生を生きたと思う、と話したのに始まって、小沢昭一に会った時、「語る」とはごんべんに吾と書くのだから、自分の考えや思いを表現しなければいけないのに、最近の芸人はごんべんに舌の「話す」だけだ、と話したことや、アメリカでのピート・シガーとの出会いなど、歌いながら次々と興味深いエピソードが繰り出して、すごくエネルギッシュな人だった。
 次のケイ・シュガーさんは、「原発ゼロへ」と菅野スガに捧げる歌。

 今回のステージで一番心に残ったのは、松本ヒロ。安保法制成立の少し前にNHKのニュースに映っていた人。パンチの効いた風刺と軽妙な話術とおかしな身振りで、笑って笑って、本当にスカッとした。器用で元気で、目一杯過激なのに、とても優しそう。地味な風貌だけど、もう忘れられません。

 最後は、3人組の雑花塾。笠木さんと一緒にコンサート活動を続けていたグループだそうで、「君が明日に生きるこどもなら」や、「平和の暦」、等々。ずっと昔から知っている「私のこどもたちへ」が、笠木さんの作品だということを、初めて知った。「私に人生というものがあるなら」は、何度も歌われ、琴線に触れて何だか泣きそうになった。
 温かで繊細な歌詞とギャップのある、いかつい風貌と骨太な生き方を、出演者たちが繰り返しなつかしんでいた。ステージが始まる前の去年のフィルムの中で、「憲法ができてから戦争をしない国として積み上げてきた歴史」を語っていた笠木さんは、今の状況をどんなに悔しがるだろう。

 コンサートが終わってみたら、何と4時間も経っていてビックリ。楽しくて、そんな長時間すわっていたとは思っていなかった。これから何度も来ようと思ったのに、ファイナルとは。会場全体が惜しんでいた笠木さんの死とともに、こんな時期に、平和を願うコンサートが終わってしまって、とてもさみしい。
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2015年09月20日

夏をゆく人々

 イタリア、エストリア遺跡のあるさみしい村で、養蜂を営む両親と四人姉妹の家族。それに居候が一人。冒頭、広い暗闇の中に数台の自動車が来て、犬による捜索が始まるかと思うと、すぐ朝に切り替わり、外で眠っていた父親が、フェンスの向こうの草原に響く銃声に向かって、罵声を浴びせる。のどかのようで不穏な感じ。克明でリアルな描写がドキュメンタリーのようなのに、不思議な寓話のような感じがあって、独特な感覚の映画だった。

 伝統的な製法を守る一家。次女のマリネッラは、要領よくさぼろうとし、その言い分がすっと通る。まだまだ幼い三女と四女は、遊びまわっているだけで、父にじゃま扱いされても、仕事を言いつけられることはない。そんななか、長女のジェルソミーナは、巣箱を移したり、逃げた蜂を塊ごと袋の中に落としたり、蜜のバケツを換えたり、長女らしい責任感で、家業の一切を引き受け、父の片腕として働いている。名前を聞いてすぐに「道」を思い出した。粗野で不器用で、いつもわめきちらす父は、ザンバノそっくりだ。
 ジェルソミーナは、父の命令を重圧に感じながらも、父の期待に応えたいと願い、頑固な父も実は娘たちを愛し、特に長女を頼っている。だが、彼は、長女がもう幼い子供ではないことや、自分が理想としていることとは違う、彼女自身の望みを抱いていることが分かっていない。

 ある時、村にテレビのクルーがやって来て、ジェルソミーナは、司会の美しい女性に魅せられる。「ふしぎの国」という番組で、伝統的な産業を紹介し、コンクールに優勝すると賞金と旅行がプレゼントされる。
 都会から見れば、辺鄙な土地はメルヘンのように映るのか、きつい労働の痛みは想像していないかのよう。出演者に古代人のコスプレをさせる。一方、ジェルソミーナにとっては、彼らが差し出すチャンスこそ、めくるめくふじぎの国だったろう。

 父が勝手に更生プログラムで少年を預かると決め、ドイツ人の少年がやって来る。全く言葉を話さず、体の接触を嫌う彼には、深い心の傷が感じられる。少年が吹く美しい口笛。ジェルソミーナは、少女らしい眼差しを向ける。おませなマリネッラが、ラブソングをかけて少年の前で踊った時、ジェルソミーナはふいに不機嫌な表情を見せる。一方で、彼女は労働力として、父に少年と比較される。両親にコンクールへの応募を打ち明けようとして逡巡するジェルソミーナ。どの場面でも、彼女の抑制の効いた瑞々しい繊細な表情に吸い込まれた。

 田舎ではあっても、周りに家もなく、隣人と対立してぽつんと暮らすさまは、地域の共同体もなさそうだ。蜂蜜は上質でも、壁の消毒や排水溝もなく、法律違反を問われながら、その解決ができない状態。家族の絆は強いが、妻が夫を見限りそうな場面もある。伝統的な製法を重んじ、地道な暮らしの反面、彼らにはまるで根無し草のような浮遊感がある。少年を探して洞窟から戻ったジェルソミーナ。少年はその後どうしたのだろう。ジェルソミーナと家族はどうなるのだろう。 
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2015年09月06日

あの日のように抱きしめて

 1945年、アウシュビッツ強制収容所から、ユダヤ機関に勤める親友のルネ(ニーナ・クンツェルドルフ)に付き添われ、ベルリンに戻ってきた、元声楽家のネリー(ニーナ・ホス)。奇跡的に生還した彼女だったが、顔に銃による大けがを負っていて、手術によっても、元の顔に戻ることはできなかった。ピアニストだった夫のジョニー(ロナルト・ツェアホルト)と再会することが何よりの望みであるネリーは、パレスチナへの移住を誘うルネの言葉に関心を示さず、夜の街を捜し歩いて、ついに、酒場で雑用係をしている夫を発見する。だが、ジョニーはネリーを妻だとは気付かないどころか、「死んだ妻に似ているから、妻を演じてくれたら財産を山分けする」と持ちかける。ネリーは、混乱しながらも夫の提案を受け入れた。

 ルネはジョニーについて、ネリーの逮捕の2日前に釈放され、その後も音楽家として普通に過ごしていた、と警告する。つまり、妻をナチに売った裏切り者だと。彼が役所から書類を盗む場面からも、ジョニーがルネのいうとおりクロであることは想像できる。だが、夫の愛情を堅く信じるネリーは、それが受け入れられない。一方のジョニーは、眼の前の女がネリーだとは分からない。二人は初め、互いの姿がまったく見えないのだ。

 ネリーが求めるのは、夫との以前の幸せな日々。彼女がジョニーの言うとおりにするのは、彼のそばにいたいためと、何より彼に、妻として発見されたいからだろう。収容所で心身をずたずたにされたうえに、顔を失くし、はじめ幽霊のようにおぼつかなかったネリーは、ジョニーの注文どおりに髪を染め、化粧をして、元のネリーをなぞっていくうち、皮肉にも元の自分を取り戻していく。それは、初めて夫と出会い、関係をやり直しているかのような、新鮮な喜びをもたらして、よけいにジョニーへの眼をくらませる。だが、生還の日のための工作でジョニーの指示通りに動くうちに、彼への疑惑が沸き起こってくるのだった。

 ジョニーはおそらく、かつてネリーを本当に愛していただろう。だから、彼女を守ろうとハウスボートに隠した。だが、ナチに尋問された恐怖で、自分の身の安全の方を選んでしまったのだ。卑怯だが、普通の小心な男なのだと思う。そして、自分の行為への後ろめたさから、それを責めるべき妻を、死んでしまったと思い込みたい。その上、落ちぶれた身の上から金が必要な彼は、彼女の財産に目をつけたなどと、本物の妻には知られてはならない。だから、目の前にいるネリーによく似た女は、どこまでもニセのネリーでなくてはならないのだ。
 だから、ネリーにそっくりに着飾った女を見て動揺したジョニーは、似ていると思うがゆえに、激しくそれを否定する。ジョニーの表情からも行動からも、彼の妻への思いは見えにくいが、彼はおそらく、自分に都合のいいように、妻への愛も罪の意識も、今の良心さえも抑圧しているのだ。

 収容所帰りの人々はみんな火傷や銃創でボロボロで、そのため誰も彼らを見ない、というジョニーの言葉がショッキングだった。そのため、ジョニーはネリーに、なりすましての収容所から生還の日に、赤いドレスを着るように言う。そして、彼の言ったとおり、出迎えた人々は、彼女の服装を不自然だとは思わず、収容所のことも訊ねない。かつて不正をした社会が、その犠牲者を受け入れる時の、奇妙なよそよそしさ。

 そして、ネリーが自分自身になりすまして彼の前に現れたまさにその日、もう彼の仕打ちに気付いていた彼女は、彼に自分の正体を人知れず気付かせる。彼への愛をよりどころに、強制収容所を生き抜いたネリー。愛は復讐に変わるのか。ミステリアスなラストが悲しかった。
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2015年09月01日

ふたつの顔を持つ少年

 ナチから逃れ、ゲットーを脱出した8歳のユダヤ人少年スルリックは、森のなかで同じ境遇の子供たちと暮らすが、ドイツ兵に追われて一人になる。冬になり、雪原をさまよった末、パルチザンの家族を待つポーランド人女性に助けられた彼は、ユレク・スタニャンという名のポーランド人孤児としての偽りの身の上話と、キリスト教徒としてのふるまいを教えられる。だが、そこにもゲシュタポが近づき、夫人のもとを離れたユレクは、次の居場所を求めて旅をするのだった。

 冒頭、上着を盗んで捕まりそうになりながら、吹きすさぶ雪のなかを歩くだけでも、すごいサバイバル。ゲットーを出る場面では、もぐり込んだ荷馬車に、ナチが銃剣を何度も突き刺す。森での生活は、一緒に食べ物を盗んで仲間が捕まっても、見捨てて走り続けなければならない。一瞬の判断で生き延びるユレク。そんななか、夫人や、少年の存在を黙っている荷馬車の男など、心ある大人が彼を助けてくれた。あの時代に、ユダヤ人を助けることにどれほどの勇気がいったか、はかり知れない。悪に覆われたなかでも、良心の人々はいたのだ。
 農家に気に入られてしばらく過ごした時、遊んでいる時に近所の子供に割礼をはやされて、そこにいられなくなる。ポーランド人だと思って受け入れた家族だが、彼がユダヤ人だと分かったあとも、追い出すのではなく、逃がしたのだ。

 だが、親切な顔をして、金のためにユダヤ人を差し出す者も。ゲシュタポに引き渡されて、絶体絶命の場面、ユレクは、勇気と知恵で、一瞬の運をつかんで逃走。銃と犬による森での追撃も逃れて生き延びる。その後も試練は続き、大きな農場で働き始めるも、脱穀機に腕をはさまれる事故。ユダヤ人だからと手術を拒否されるが、翌日別の医者が執刀し、命を取り留める。たが、最初の医者が放置したことで、右手を失った。
 そして、手術を拒否した医者の密告でナチに追われるも、またしても、同室の老人や、農場の先輩や、見知らぬ船頭たちの助けにより、逃げ切るのだった。
 病院から連れ出してくれた男は、見つかれば自分も危ないのに、命がけで良心に従った行動をとる。

 たった一人の小さな少年も逃がすまいと追ってくる、ナチの執拗さは不思議なほどだ。もし、彼の体が大人のように大きかったら、荷台の中にもぐり込むのも、水辺に隠れるのも難しかっただろう。少年だったから、うその身の上話も短くてすむし、警戒もされにくい。それでも、固く扉を閉ざす人々。賢いユレクは、用心深く大人たちを引きつけて生き延びる。
 そして、少年だったからこそ、子供たちと仲良くなり、家族の一員として本当に愛されもしたのだろう。そうした経験が、過酷な経験のなかに、温かな違う記憶をすべり込ませ、心を休ませて生きる活力を注いだと思う。
 
 だが、追われるユレクが出会う人々は、必ず間もなく別れる相手。そして、その後はもう二度と会うことのない人々だ。助けてくれて、絆をつないだ人たちとの別れの切なさ。心もとなさ。それでも決して絶望せずに、次々と苦難を乗り越えて生き抜き、生き延びていく少年の姿に、深く胸を打たれた。 
posted by HIROMI at 18:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記