2015年11月11日

マルガリータに乾杯!

 デリーの街を走るバン。冗談を言い合う家族の中で、身をよじるように笑う若いライラの輝くような笑顔が素敵。車が止まると、中から車いすが降ろされる。ライラは身体障害者なのだ。
 彼女はデリー大学に通う学生だが、校内の階段を上がるためには車いすごとの介助が必要だし、会話も、息切れしながら短いフレーズしか話せない。静かにしなければいけない図書館でも、声の抑制が難しい。でも、ライラはそんな不自由はものともせずに、ラインやスカイプでチャットをしたり、明晰な頭脳で路上のチェスでも無敵だ。幸せいっぱいのキラキラオーラに引きつけられた。そして、年頃の彼女は恋に憧れていた。

 同じく障害をもつ青年ドゥルヴとは友人だけど、彼は彼女が好き。パソコンでエッチな場面に刺激を受けたライラは、自分からドゥルヴに触れてキスをする。ところが、大学のバンドのイケメンボーカルのニムを見ると、たちまち彼に恋をして、自作の歌詞をほめられると、自分への好意と勘違いしてしまう。頭がいいのに早合点のライラ。コンテストで優勝するも、障害者の作品だったから、と評され傷ついたライラは、同時に失恋も味わって、大学が嫌になってしまう。

 インドは男性優位の社会かと思っていたが、ライラの母親は夫に代わって車を運転するし、夫の反対を押し切って、娘の新天地を開くために、ニューヨークへの留学を強力に援護。夫をおいて二人でアメリカにやって来る。

 そこでライラは、パキスタンとバングラディッシュの両親をもつ美しいハヌムと出会うが、騒然としたデモで叫んでいた彼女が、白い杖をもっていた場面は驚いた。ハヌムも、盲目なのに化粧もオシャレも自在な自由な人。彼女もライラに負けず、独特の存在感で魅力的。
 ハヌムは実はレズビアンで、ある時ライラはふと彼女の誘惑に応える。予想外の展開にびっくりだ。ライラはハヌムに惹かれていたと思うけど、強い好奇心と飛び切りの楽天性が、彼女を前に進めているのかもしれない。ともあれ、二人は本当の恋人に。

 一方、面食いのライラは、授業の記述の介助をハンサムなジャレードに申し込まれると、本当は全然必要ないのに、断らずに助けてもらう。彼が恋人でない女の子とディープキスするのを見てけげんに思うが、気楽に性を楽しむジャレードの姿も、彼女には新しい世界だったろう。そして、トイレ介助の時、二人は自然に体を合わせてしまう。ほんとの恋じゃなくても、これもアリ。ライラにはすべてがチャレンジのよう。

 恋人と暮らすための母親からの自立。浮気を告白したために、恋人とのいさかいと別れ。自分のセクシュアリティを告白して、母親と対立。自分らしくあろうと悩むライラの姿は、正直で力強くて、ハラハラさせられるけど、どこまでもさわやか。自分を信じて愛してるラストに、感動がこみ上げた。
posted by HIROMI at 20:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2015年11月03日

第31回 ワンコリアフェスティバル

 1日、大阪城野外音楽堂で、「第31回 ワンコリアフェスティバル」を聴きに行った。南北に分断された二つの国の統一と、差別のない平等な社会を願って、多彩な出演者が集っていた。

 トップバッターのよしだよしこは、柔らかい静かな声。繊細な詞の反戦歌のあと、アメリカ公民権運動のきっかけとなったローザ・パークスについて語るように歌い、こんなプロテストソングがあるんだ、と思った。

 同じく衝撃的だったのは、中川五郎。関東大震災の翌日に烏山神社の近くで起こった、鉄道修復のため、土工を積んで都心に向かっていたトラックを、村の自警団が襲った朝鮮人殺傷事件のことを歌にしていた。烏山神社にかつて12本植えられ、そのうち4本が今も残るクスノキは、殺された朝鮮人を弔うためではなく、連行された加害者たちが、無事に警察署から戻ってきたことを祝って植えられたものだという。

 ジンタらムータは、クラリネットや太鼓で賑やかなチンドンキャラバン。「不屈の魂」とビクトル・ハラの「平和に生きる権利」。反原発デモを追ったドキュメンタリー「首相官邸の前で」のエンディングを担当したそうで、それも演奏してくれた。

 朝鮮の民族楽器や舞踏ももちろんあって、朴根鐘(パク・クンジョン)と仲間たちが、カヤグンのほか、弓で弾くアジェンや短い棒のようなもので弾くコムンゴとかの変わった琴を演奏。
 ヨン・ミンチによるチャンゴは、超絶技巧のジャズのような演奏だった。
 大阪朝鮮歌舞団の太鼓の舞は、一指乱れず華やかで美しかった。

 それに、アイヌ文化継承者のToyToyが、大きな剣のような形の弦楽器トンコリを演奏。三線や朝鮮民族楽器との即興も面白かった。

 いろんなルーツの人がいるなあ、と思ったのは、寿という沖縄音楽のボーカルのナビィが、長い音の続く覚えにくい沖縄言葉を教えてくれているのに、実は広島出身だったこと。彼女が、知っている限りの韓国語を使っているのが面白かった。

 ソウルクライ&ギヒョンという韓国の二人組は、韓国ドラマ「プロデューサー」の歌を歌っている人気者だそうで、すごくきれいなデュエット。今をときめく歌声はほんとに華がある。

 趙さんは、司会もこなしながら、おなじみの「アホダラ経」と「ひでり」。長引いたリハーサルでも舞台にいたので、開演前から目立っていた。

 たくさんの魅力的な人たちを見つけた日だったけど、一番強烈だったのは、ラストに出てきた朴保(パク・ポウ)。初めは普通な感じに思えたけど、歌が進むにつれ、ダミ声なのによく通る声が輝き出す。観客が舞台の下で踊り出して、アンコールの嵐。終わりがないように思えるほどだった。

 1部と2部があって、12時半に始まったのに、終わったのは5時を過ぎてた。でも全然長くなく、楽しくて贅沢な時間だった。
posted by HIROMI at 10:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2015年10月11日

僕らの家路

 弟マヌエルと二人きりの朝、ジャックは朝食の用意をしてから着替えを取り込み、弟を起こして学校に急ぐ。ピクニックに行っても、母親は友人と続きに遊びに行って、兄弟二人で夜道を帰らなければいけない。真夜中、お腹を空かせたジャックが、母が恋人といる部屋に行くと、母は裸のままで彼にシリアルを食べさせる。子どもを可愛がりながらも、自分の楽しみに夢中になっている若い彼女は、母親というより、青春まっただ中の奔放な姉のようだ。

 そんなある時、ジャックが用意した風呂でマヌエルが火傷をし、そのためにジャックが養護施設に預けられることに。ジャックはそこで上級生ダニーロにいじめられ、孤独に耐えながら母に会える日を待つが、ようやくやってきた休みの日、母から、仕事のために迎えは3日後だと告げられる。同じく施設に残されていたダニーロにまたもいじめられ、友人が貸してくれた双眼鏡を池に投げられたジャックは、思わずダニーロを殴り倒し、ひたすら家を目指して歩き出した。

 そこからどれだけ歩き続けただろう。フェンスを越え、地下の駐車場で眠り、道路に沿って歩き、なけなしのお金で電話をしても、母の電話はつながらない。ようやく家にたどり着いても、下駄箱にあるはずの鍵もない。マヌエルの預け先まで行ったジャックは、今度は二人で母を探しに行くのだった。

 母がよく立ち寄る居酒屋、それから煙がもうもうのナイトクラブ。どれも子供が行くような場所ではない。小さな二人が人ごみをかき分けても誰も気付かず、つまみ出されもしない代わりに、助けも得られない。暗い夜道を歩いても、彼らは全くの孤独だ。
 大人たちの反応は、無関心か冷たいか。母親の知り合いはジャックの姿を見ても驚かず、まるでジャックが大人であるかのようだ。マヌエルの預け先は、女は迷惑を口にし、男は無言で荷物を放り出す。駐車場ではどなられる。母の元恋人は何とか助けてくれるものの、結局彼らの孤独や心情はわかっていない。

 だが、そんな状況を、ジャックは泣かずに、疲れて眠ってしまうマヌエルを起こしながら、力を振り絞って進んでいく。何でも一人でこなしてきたジャックは、初めから大人たちの助けなど期待していないのかもしれない。ジャックの身の上はハラハラさせられるし胸が痛むが、彼はちっともみじめには見えない。それどころか、しっかりとして誇り高い。彼は途中何度も何度も電話をしては留守電を入れ、戻ってくるたびにメモを残す。そのたびに失望し、苛立ちが募っていく。その切なさ、心もとなさ。だが同時に、母を求める子供の姿が、逆に行方の知れない母を案じているように見えてくる。彼を支えているのは、母に愛されているという確信。だから、母の元恋人に、「君は母親に捨てられたんだ」と言われた時、猛然と反発する。

 ところが、窓に灯りを見つけやっとの思いで再会した母は、思い切り愛情を示してはくれるものの、何ともこともなげ。新しい恋人とのことで夢見がちな彼女は、ジャックの残した留守電にも、メモにも気付いていないのだ。そして以前と同じ朝を迎えたジャックは、迷わず自分の選択をする。意外で、驚くほどあっけない幕切れ。彼の前には、これからたくさんのことがあるはず。だが、彼ならたくましく生きていくかもしれない。そして、その選択が間違っていない気がしてくる。
posted by HIROMI at 16:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2015年10月05日

京都ピースナインコンサート

 一昨日、京都文化センターで、京都ピースナインコンサートを聴きに行った。昨年12月に亡くなった笠木透さんの追悼コンサートで、2005年から始まったコンサートのファイナルだった。

 トップバッターは趙さんのアホンダラ経。安保法制の成立を受けて、内容がより過激になっていて、その分わかりやすくて面白かった。
 次は野田淳子さんが、エスペラント語で「死んだ男の残したものは」。
 三人目は高石ともや。笠木さんはチリの軍事クーデターで殺されたビクトル・ハラと同い年で、彼の分まで二人分の人生を生きたと思う、と話したのに始まって、小沢昭一に会った時、「語る」とはごんべんに吾と書くのだから、自分の考えや思いを表現しなければいけないのに、最近の芸人はごんべんに舌の「話す」だけだ、と話したことや、アメリカでのピート・シガーとの出会いなど、歌いながら次々と興味深いエピソードが繰り出して、すごくエネルギッシュな人だった。
 次のケイ・シュガーさんは、「原発ゼロへ」と菅野スガに捧げる歌。

 今回のステージで一番心に残ったのは、松本ヒロ。安保法制成立の少し前にNHKのニュースに映っていた人。パンチの効いた風刺と軽妙な話術とおかしな身振りで、笑って笑って、本当にスカッとした。器用で元気で、目一杯過激なのに、とても優しそう。地味な風貌だけど、もう忘れられません。

 最後は、3人組の雑花塾。笠木さんと一緒にコンサート活動を続けていたグループだそうで、「君が明日に生きるこどもなら」や、「平和の暦」、等々。ずっと昔から知っている「私のこどもたちへ」が、笠木さんの作品だということを、初めて知った。「私に人生というものがあるなら」は、何度も歌われ、琴線に触れて何だか泣きそうになった。
 温かで繊細な歌詞とギャップのある、いかつい風貌と骨太な生き方を、出演者たちが繰り返しなつかしんでいた。ステージが始まる前の去年のフィルムの中で、「憲法ができてから戦争をしない国として積み上げてきた歴史」を語っていた笠木さんは、今の状況をどんなに悔しがるだろう。

 コンサートが終わってみたら、何と4時間も経っていてビックリ。楽しくて、そんな長時間すわっていたとは思っていなかった。これから何度も来ようと思ったのに、ファイナルとは。会場全体が惜しんでいた笠木さんの死とともに、こんな時期に、平和を願うコンサートが終わってしまって、とてもさみしい。
posted by HIROMI at 18:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2015年09月20日

夏をゆく人々

 イタリア、エストリア遺跡のあるさみしい村で、養蜂を営む両親と四人姉妹の家族。それに居候が一人。冒頭、広い暗闇の中に数台の自動車が来て、犬による捜索が始まるかと思うと、すぐ朝に切り替わり、外で眠っていた父親が、フェンスの向こうの草原に響く銃声に向かって、罵声を浴びせる。のどかのようで不穏な感じ。克明でリアルな描写がドキュメンタリーのようなのに、不思議な寓話のような感じがあって、独特な感覚の映画だった。

 伝統的な製法を守る一家。次女のマリネッラは、要領よくさぼろうとし、その言い分がすっと通る。まだまだ幼い三女と四女は、遊びまわっているだけで、父にじゃま扱いされても、仕事を言いつけられることはない。そんななか、長女のジェルソミーナは、巣箱を移したり、逃げた蜂を塊ごと袋の中に落としたり、蜜のバケツを換えたり、長女らしい責任感で、家業の一切を引き受け、父の片腕として働いている。名前を聞いてすぐに「道」を思い出した。粗野で不器用で、いつもわめきちらす父は、ザンバノそっくりだ。
 ジェルソミーナは、父の命令を重圧に感じながらも、父の期待に応えたいと願い、頑固な父も実は娘たちを愛し、特に長女を頼っている。だが、彼は、長女がもう幼い子供ではないことや、自分が理想としていることとは違う、彼女自身の望みを抱いていることが分かっていない。

 ある時、村にテレビのクルーがやって来て、ジェルソミーナは、司会の美しい女性に魅せられる。「ふしぎの国」という番組で、伝統的な産業を紹介し、コンクールに優勝すると賞金と旅行がプレゼントされる。
 都会から見れば、辺鄙な土地はメルヘンのように映るのか、きつい労働の痛みは想像していないかのよう。出演者に古代人のコスプレをさせる。一方、ジェルソミーナにとっては、彼らが差し出すチャンスこそ、めくるめくふじぎの国だったろう。

 父が勝手に更生プログラムで少年を預かると決め、ドイツ人の少年がやって来る。全く言葉を話さず、体の接触を嫌う彼には、深い心の傷が感じられる。少年が吹く美しい口笛。ジェルソミーナは、少女らしい眼差しを向ける。おませなマリネッラが、ラブソングをかけて少年の前で踊った時、ジェルソミーナはふいに不機嫌な表情を見せる。一方で、彼女は労働力として、父に少年と比較される。両親にコンクールへの応募を打ち明けようとして逡巡するジェルソミーナ。どの場面でも、彼女の抑制の効いた瑞々しい繊細な表情に吸い込まれた。

 田舎ではあっても、周りに家もなく、隣人と対立してぽつんと暮らすさまは、地域の共同体もなさそうだ。蜂蜜は上質でも、壁の消毒や排水溝もなく、法律違反を問われながら、その解決ができない状態。家族の絆は強いが、妻が夫を見限りそうな場面もある。伝統的な製法を重んじ、地道な暮らしの反面、彼らにはまるで根無し草のような浮遊感がある。少年を探して洞窟から戻ったジェルソミーナ。少年はその後どうしたのだろう。ジェルソミーナと家族はどうなるのだろう。 
posted by HIROMI at 09:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2015年09月06日

あの日のように抱きしめて

 1945年、アウシュビッツ強制収容所から、ユダヤ機関に勤める親友のルネ(ニーナ・クンツェルドルフ)に付き添われ、ベルリンに戻ってきた、元声楽家のネリー(ニーナ・ホス)。奇跡的に生還した彼女だったが、顔に銃による大けがを負っていて、手術によっても、元の顔に戻ることはできなかった。ピアニストだった夫のジョニー(ロナルト・ツェアホルト)と再会することが何よりの望みであるネリーは、パレスチナへの移住を誘うルネの言葉に関心を示さず、夜の街を捜し歩いて、ついに、酒場で雑用係をしている夫を発見する。だが、ジョニーはネリーを妻だとは気付かないどころか、「死んだ妻に似ているから、妻を演じてくれたら財産を山分けする」と持ちかける。ネリーは、混乱しながらも夫の提案を受け入れた。

 ルネはジョニーについて、ネリーの逮捕の2日前に釈放され、その後も音楽家として普通に過ごしていた、と警告する。つまり、妻をナチに売った裏切り者だと。彼が役所から書類を盗む場面からも、ジョニーがルネのいうとおりクロであることは想像できる。だが、夫の愛情を堅く信じるネリーは、それが受け入れられない。一方のジョニーは、眼の前の女がネリーだとは分からない。二人は初め、互いの姿がまったく見えないのだ。

 ネリーが求めるのは、夫との以前の幸せな日々。彼女がジョニーの言うとおりにするのは、彼のそばにいたいためと、何より彼に、妻として発見されたいからだろう。収容所で心身をずたずたにされたうえに、顔を失くし、はじめ幽霊のようにおぼつかなかったネリーは、ジョニーの注文どおりに髪を染め、化粧をして、元のネリーをなぞっていくうち、皮肉にも元の自分を取り戻していく。それは、初めて夫と出会い、関係をやり直しているかのような、新鮮な喜びをもたらして、よけいにジョニーへの眼をくらませる。だが、生還の日のための工作でジョニーの指示通りに動くうちに、彼への疑惑が沸き起こってくるのだった。

 ジョニーはおそらく、かつてネリーを本当に愛していただろう。だから、彼女を守ろうとハウスボートに隠した。だが、ナチに尋問された恐怖で、自分の身の安全の方を選んでしまったのだ。卑怯だが、普通の小心な男なのだと思う。そして、自分の行為への後ろめたさから、それを責めるべき妻を、死んでしまったと思い込みたい。その上、落ちぶれた身の上から金が必要な彼は、彼女の財産に目をつけたなどと、本物の妻には知られてはならない。だから、目の前にいるネリーによく似た女は、どこまでもニセのネリーでなくてはならないのだ。
 だから、ネリーにそっくりに着飾った女を見て動揺したジョニーは、似ていると思うがゆえに、激しくそれを否定する。ジョニーの表情からも行動からも、彼の妻への思いは見えにくいが、彼はおそらく、自分に都合のいいように、妻への愛も罪の意識も、今の良心さえも抑圧しているのだ。

 収容所帰りの人々はみんな火傷や銃創でボロボロで、そのため誰も彼らを見ない、というジョニーの言葉がショッキングだった。そのため、ジョニーはネリーに、なりすましての収容所から生還の日に、赤いドレスを着るように言う。そして、彼の言ったとおり、出迎えた人々は、彼女の服装を不自然だとは思わず、収容所のことも訊ねない。かつて不正をした社会が、その犠牲者を受け入れる時の、奇妙なよそよそしさ。

 そして、ネリーが自分自身になりすまして彼の前に現れたまさにその日、もう彼の仕打ちに気付いていた彼女は、彼に自分の正体を人知れず気付かせる。彼への愛をよりどころに、強制収容所を生き抜いたネリー。愛は復讐に変わるのか。ミステリアスなラストが悲しかった。
posted by HIROMI at 11:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2015年09月01日

ふたつの顔を持つ少年

 ナチから逃れ、ゲットーを脱出した8歳のユダヤ人少年スルリックは、森のなかで同じ境遇の子供たちと暮らすが、ドイツ兵に追われて一人になる。冬になり、雪原をさまよった末、パルチザンの家族を待つポーランド人女性に助けられた彼は、ユレク・スタニャンという名のポーランド人孤児としての偽りの身の上話と、キリスト教徒としてのふるまいを教えられる。だが、そこにもゲシュタポが近づき、夫人のもとを離れたユレクは、次の居場所を求めて旅をするのだった。

 冒頭、上着を盗んで捕まりそうになりながら、吹きすさぶ雪のなかを歩くだけでも、すごいサバイバル。ゲットーを出る場面では、もぐり込んだ荷馬車に、ナチが銃剣を何度も突き刺す。森での生活は、一緒に食べ物を盗んで仲間が捕まっても、見捨てて走り続けなければならない。一瞬の判断で生き延びるユレク。そんななか、夫人や、少年の存在を黙っている荷馬車の男など、心ある大人が彼を助けてくれた。あの時代に、ユダヤ人を助けることにどれほどの勇気がいったか、はかり知れない。悪に覆われたなかでも、良心の人々はいたのだ。
 農家に気に入られてしばらく過ごした時、遊んでいる時に近所の子供に割礼をはやされて、そこにいられなくなる。ポーランド人だと思って受け入れた家族だが、彼がユダヤ人だと分かったあとも、追い出すのではなく、逃がしたのだ。

 だが、親切な顔をして、金のためにユダヤ人を差し出す者も。ゲシュタポに引き渡されて、絶体絶命の場面、ユレクは、勇気と知恵で、一瞬の運をつかんで逃走。銃と犬による森での追撃も逃れて生き延びる。その後も試練は続き、大きな農場で働き始めるも、脱穀機に腕をはさまれる事故。ユダヤ人だからと手術を拒否されるが、翌日別の医者が執刀し、命を取り留める。たが、最初の医者が放置したことで、右手を失った。
 そして、手術を拒否した医者の密告でナチに追われるも、またしても、同室の老人や、農場の先輩や、見知らぬ船頭たちの助けにより、逃げ切るのだった。
 病院から連れ出してくれた男は、見つかれば自分も危ないのに、命がけで良心に従った行動をとる。

 たった一人の小さな少年も逃がすまいと追ってくる、ナチの執拗さは不思議なほどだ。もし、彼の体が大人のように大きかったら、荷台の中にもぐり込むのも、水辺に隠れるのも難しかっただろう。少年だったから、うその身の上話も短くてすむし、警戒もされにくい。それでも、固く扉を閉ざす人々。賢いユレクは、用心深く大人たちを引きつけて生き延びる。
 そして、少年だったからこそ、子供たちと仲良くなり、家族の一員として本当に愛されもしたのだろう。そうした経験が、過酷な経験のなかに、温かな違う記憶をすべり込ませ、心を休ませて生きる活力を注いだと思う。
 
 だが、追われるユレクが出会う人々は、必ず間もなく別れる相手。そして、その後はもう二度と会うことのない人々だ。助けてくれて、絆をつないだ人たちとの別れの切なさ。心もとなさ。それでも決して絶望せずに、次々と苦難を乗り越えて生き抜き、生き延びていく少年の姿に、深く胸を打たれた。 
posted by HIROMI at 18:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2015年08月29日

この国の空

 1945年、3月の大空襲のあとの東京杉並区。父が戦争に行き、母と暮らす19歳の里子(二階堂ふみ)。隣に住む銀行支店長の市毛(長谷川博己)は、妻子を田舎に疎開させて一人暮らし。おすそ分けを持って行ったり、配給の物資を届けたりの近所付き合いのなか、ひそかに市毛を慕う里子。二人の男女は次第にキョリを縮めていくのだった。

 親子二人でかつかつの暮らしのところに、横浜で焼け出された母の姉が転がり込むと、姉妹間の最初の驚きやいたわりが、たちまち敵意に変わっていがみ合う。配給の乏しい食糧。眠る間もなく響く空襲警報。不安で心もとない彼らの周りには、若い男たちの姿はない。そして、疎開のせいで、子供たちの声も、街からは消えている。

 親戚から送ってきたもちを市毛の家で焼いた里子は、突然泣き出して、市毛を動揺させる。市毛に言われて夜に家を訪ねると、市毛は妻子に送るための新聞の切り抜きを彼女に見せる。留守を頼まれて家に入ると、柱には子供の背の切り込み。近づいてもそこに見えるのは、他人のものである男の顔ばかり。だが、里子はひるまず、若さ一杯にたぎらせた恋のあこがれや、性への恐れを、一心に市毛に傾ける。

 兵隊検査が丙種合格だったために、徴兵を逃れた市毛。新聞記者の友人から終戦が近いと知らされるものの、赤紙が突然来るのを恐れている。克明でみじめは自爆のイメージ。そんな彼は、死とは対極の里子の若さに強く惹かれ、ついにそれを口にする。

 一旦スイッチの入った情動が、確実に前に進んでいくさまが、切なく暗い。後ずさりする里子を木の幹に追い詰める市毛。その夜、市毛の家に来た里子を、市毛は躊躇なく抱き寄せた。大きく歳の離れた道ならない関係が、息を飲むように切羽詰まったものに思われるのは、未来の見えない戦時下だからだろう。
 初めは市毛を警戒するように言っていた母が、終戦が確実なことを知らせに来た市毛のそばで彼の世話を焼く里子を見、雨のなか彼を送っていくように言う。大人の女としての娘の行き場のない思いを、見守るすべしかないのだろうか。すべて、戦争の真空状態のせいだ。

 始まったばかりの二人の恋。だが、戦争が終わって市毛の妻子が帰ってきたら、状況は変わるはず。男のずるさと、女の怖さがチラッと見えたラスト。里子は、これから自分の戦争が始まるのだという。茨木のり子の詩「私が一番きれいだった時」が、里子の声で朗読されても、詩の健全さとは裏腹に、抑圧された日常のねっとりした感じが、いつまでも残った。
posted by HIROMI at 13:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2015年08月16日

チャップリンからの贈り物

 刑務所から出てきたエディ・リカール(ブノワ・ポールヴールド)を迎えに来たオスマン・ブリシャ(ロシュディ・ゼム)は、エディを自分の家の後ろに置いたトレーラーハウスに住まわせる。いわくありげな男の友情は、ほんわかしてるけどノワールの香り。オスマンの家といえば、おんぼろで冷蔵庫も壊れてる。貧しいオスマンは、獣医になりたい娘の夢をかなえてやるどころか、入院中の妻の治療費もままならない状態だった。
 クリスマスの夜、エディはどこからか盗んできたクリスマスツリーとテレビをオスマンにプレゼント。折しも、チャップリン死去のニュースが流れ、それを見ていたエディは、チャップリンの遺体を盗んで大金を得ようと思いつく。

 墓地に忍び込んで棺を掘り出し、別の穴を掘って苦労して埋める。何だか間の抜けた感じだけど、セリフのない長いシーンは、ノワールの香り。首尾は完璧だと思ってるエディは、チャップリン夫人に電話して身代金を要求するも、相手は英語しか話さない。「フランス語で話せ!」とか「こっちはスイスの窃盗団だぞ」とか、身元がバレそうなセリフが笑える。
 困った二人は、警察に電話するが、本当に犯人かを疑われ、証拠に棺の写真を要求される。パニッくったエディは、要求額をいきなり半分に下げてオスマンともめる。そのドタバタが何ともオカシイ。それでも警察は二人に向かって動き始め、金の受け渡しまで事態が進むが、結局不発。
 初めから乗り気でなかったオスマンは、捕まりそうになったショックでエディを追い出すが、治療費支払に追い詰められ、結局エディに頼み込んで犯罪の続きを演じることに。切羽詰まったオスマンが、要求額をきっちり治療費まで下げて必死で脅すのが、可笑しくも切ない。

 世界のチャップリンの棺を盗むというのは、大それているけど、発想自体がユーモラス。エディは、読書好きで、オスマンの娘サミラ(セリ・グマッシュ)を可愛がる。何やらいかがわしいものの、どこかさみしげで憎めない人物だ。妻と娘を心から愛しながら、金に困る実直なオスマンの窮状は胸が痛む。エディは、「チャップリンは放浪者や貧乏人の友たち。彼に金を借りよう」とオスマンを説得したが、二人とも貧しい移民で、実際チャップリンの映画に出てくるような底辺の人々だ。

 特に印象に残っているのは、オスマンに追い出されたエディが、サーカスの女団長ローザ(キアラ・マストロヤンニ)に見込まれて道化を演じる場面。スーツを着た二人の男が、スローモーションで殺し合う舞台は、可笑しくもペーソスに満ちている。

 この話は実話だそうだ。でも、逮捕された後の二人の運命は脚色されているという。国外退去や5年の懲役が求刑された二人だが、チャップリン家が告訴しなかったこともあり、幸運にも放免。エディはサーカスに居場所を見つけ、ローザの愛も得るし、オスマンには、思わぬプレゼントが届く。チャップリンの映画のような、温かな結末がうれしかった。
posted by HIROMI at 13:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2015年08月14日

ボヴァリー夫人とパン屋

 パリでの出版社勤務の後、父のあとを継ぎノルマンディーの小さな村でパン屋をしているマルタン・ジュペール(ファブリス・ルキーニ)。「ボヴァリー夫人」フリークで、本をぼろぼろになるまで読み込んでいる彼の隣に、英国人夫婦が越してくるが、妻の名は何と、小説の主人公にGを足しただけのジェマ・ボヴァリー(ジェマ・アータートン)で、夫は、フランス語読みでは主人公の夫役のシャルルとなるチャーリー(ジェイソン・フレミング)。マルタンは、奇しくも小説と重なるかのような、ジェマの振る舞いにくぎ付になっていく。

 隣人とはいえ、マルタンはしょっちゅうジェマに出くわす。犬の散歩中の会話はともかく、彼女が美青年のエルヴェ・ド・ブレシニー(ニールス・シュナイダー)に声をかけられる場面を目撃し、彼女がエルヴェの大きな屋敷に入っていくところさえ目撃する。そればかりか、ジェマがもう一人の別の男パトリックとただならぬ仲らしいのも見てしまう。小説と同じ展開が、マルタンの予想と期待どおりに起こっていくのだ。

 ジェマの恋の観察者であるマルタンだが、彼自身もジェマに強く惹かれている。店を訪れ、パンのおいしさに興奮するジェマ。工房で、マルタンの横でパンをこねてみせるジェマの恍惚の表情。マルタンのそばにいる時の彼女からは息の音が聞こえ、若さと性が匂い立っている。だから、ジェマの身を案じて恋を妨害してしまうマルタンの心の中には、多分嫉妬が混じっている。

 ジェマは小説のエマと同じく、夫のそばで確かに退屈そうだ。そしてその相手は、小説の登場人物と同じく、快楽が目当ての薄情な誘惑者。どのみち母親の庇護から逃れられないエルヴェは、そっけないメールを残してパリに戻ったのだから、マルタンの介入がなくても、結局ジェマの恋は相手のせいで終わっただろう。皮肉にも、現実は小説のとおりに進んでいく。

 マルタンは、ジェマの恋を妨害することに邪悪な喜びを感じているが、彼の胸を不安で締め付けているのは、いつか訪れるかもしれない彼女の死だ。たびたびジェマに叫び声を上げさせるネズミ。そのために用意された殺鼠剤。小説のエマはそれを飲んで死んでいるため、マルタンはその薬剤に異様に反応してしまう。だが、ジェマを死に至らせるのは、そのヒ素でも、マルタンの眼の前で刺されて彼女が倒れた蜂のアナフィラキシーでもなく、意外にも、マルタンが彼女に贈ったものだった。

 ジェマはもちろん、小説とは違う自分の人生を生きていて、パトリックとは引っ越してくる以前に終わった仲。パトリックのずるさを見抜いて彼を拒否するし、エルヴェが去ったあとには、夫の誠実さを見直し、自分が本当に愛しているのは誰かに気付く。彼女には自殺願望などみじんもなかった。マルタンはジェマの日記を盗んで読むが、そこにはエマとは違う、ジェマの生き生きした決心や、独自の感情があったはずだ。

 だが、パトリックが引っ越し先に現れるのは、まるで物語に引き寄せられたかのよう。そして、マルタンがジェマに警告した「現実が芸術を模倣する」という奇妙なことに。三角関係の末のように見えた悲劇に、頭がクラクラした。

 この話はマルタンの眼を通して描かれているが、作品のユーモアをすべて担っているのも彼だ。チャーリーが去ったあとに越してきた隣人の名をアンナ・カレーニナだと息子に騙されたマルタン。早速隣人に近づく彼の背後、彼の壮大な妄想のように、ポーレシュカ・ポーレが壮大に鳴り響くラストに、思わず吹き出した。
posted by HIROMI at 11:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記